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​◆2.彷徨う少女(1)

 ふと空を見上げてみると、先程まであんなに明るかった青空が仄暗くなり始めていた。俺と彼女はそんな薄暗く冷える狭い路地で、暫く二人で話し込んでいたのだが……結果として数十分もの大幅な時間を要してしまったのだ。そうなってしまった原因は、そもそも彼女から聞いた話があまりにも“突飛”すぎて、俺の理解がなかなか追い付かなかったことにある。
 スマホで時刻を確認してみるともう十六時になろうとしている。もう十一月の半ばだ、この時期はやっぱり日が早く落ちるな。
 ちなみにその間も誰一人として他に通って来ていないので、ここは本当に閑散としていているようだった。もしくは暫く路地でじっとしている俺の存在を気味悪がられて、他の人が近付き難い感じになっているのかもしれない。それだと普通に悲しい。
 それと、日が落ちてきたということはこれから更に気温も下がって、冷え込みが増してくるだろう。ずっと外に居るせいか多少はこの寒さに体が慣れてきたような気もするが、こんな低い気温では体調が不安なことに変わりはない。風邪を引いてしまったら行動にも支障が出てしまうし、なるべく早く暖かい屋内に退避したいところだ。
 とは言え、まずは目先のことを何とかしなければいけない。彼女の身に何が起こっているのか、俺がいくつか質問を繰り返して分かったことを簡単にまとめてみる。

「つまり、あなたは目が覚めるといきなり外に放り出されていて、目覚める以前の記憶も全く無くて、暫く訳が分からないまま街中を彷徨っていたと?」
「ええ……それと、私自身もなんだかおかしいの。さっき気付いたでしょう? そのせいで今まで誰にも助けてもらえなかった」
「はい……」

 俺は小さく頷く。
 いきなり外で目覚めるなんて驚きの出来事を除けば、彼女は記憶喪失の迷子なわけで……それだけだったら、すぐに警察など然るべきところへ届け出るなりすれば大丈夫だっただろう。その後、全て順調に解決するかは一旦置いといて。
 しかし彼女にはもう一つ、重大な問題点があったのだ。
 彼女は記憶喪失な上に、“人間ではない”。
 更に彼女が実際に経験したことによると、どうやら彼女の姿は人々から見えていないらしい。当然声も届かず、彼女の助けを求める行動は全て空振ってしまい、今に至るというわけだ。最初に見た時に壁をじっと見つめていたのは、ただ途方に暮れてどうしようもなくなっていただけだそうだ。この一連の話を聞いただけで、彼女の苦労がだいぶ窺えた。
 目の前に居る彼女の姿で一目瞭然だが、彼女の体は透けていて影も無く、その足元は明らかに地面から浮いていた。人間とは明らかに違うとすぐに分かる。軽く彼女が移動する様子も見させてもらったが、分かりやすく例えるならば水中で泳ぐ人魚のような感じで、足を動かさずとも移動出来てしまうようだ。
 以上の点からして、俺が思い付く限りで今の彼女の存在に近しいものを挙げるなら、間違いなく“幽霊”が一番適しているように思う。むしろ、それしか思い付かない。

「………………」

 しかし……彼女が幽霊であり死者だったとして、何で俺は彼女のことが見えて、声まで聞こえるんだろう。自分に霊感があったとは思えないので、未だに信じ難い。
 しかも俺が、運良く彼女のことを見つけることが出来た希な人間になってしまったのだとしたら、その分のし掛かる責任は重大だ。彼女のことを助けると言ってしまったからには、絶対に俺が何とかしてあげないといけないだろう。こんな信じ難い状況では、他の人にも協力を仰ぐのも難しそうだし……うぅ、それでも次にどうすべきかは全然思い付きそうにない……初めて直面する問題に困惑している。
 幽霊なら成仏させてあげれば良いのか?
 それってどうすれば良いんだっけ?
 確か幽霊が成仏出来ないのは、未練が残っているとかどうとか……でも彼女は記憶を失っているし、まずはそれを取り戻さないといけないんじゃ……?

「ごめんなさいね……」
「あっ、いえ……! こっちこそ、放ったらかしにしちゃってすみません! 今ちょっと考えて……」
「私って本当に存在してるのかしら……夢だったら覚めてほしいわ……」
「…………」

 目の前の彼女が何気なくぽつりと呟いたことが、俺のぐるぐるしていた思考に強く引っ掛かった。見てみると彼女は眉を下げて不安そうな顔をしていて、囁くような弱々しい声でひたすら続けて呟いていた。近くでよく耳を澄ましていなければ、側にある道路から今居る薄暗い路地まで響いてくる車の走行音にかき消されてしまいそうなくらいだった。
 これは現実なのか夢なのか、その発言からも受け取れるように、彼女は俺と話している間も時折周囲を少し見渡すようにして何かを確認しているように見えた。その力無い姿は、なんだか昔の自分の重なって見えてきて……とても心苦しい。

「…………」

 ……うん、俺なんかよりも彼女の方がとても不安だろうに、俺がこんな弱気になっていてはいけなかった……しっかりしないと。こんな情けなく苦い顔をしている場合じゃない!

「大丈夫!」
「!」
「そう不安にならないで、大丈夫です! あなたはちゃんとここに居ます、俺もここに居ますから! その、今は大変でしょうけど、俺がきっとなんとかしてみせますよ!」
「……あ、ありがとう」

 彼女が少し微笑んだ。微妙に苦笑しているようにも見えるが。ちょっと、無理やりすぎたかな……引かれたかも……。
 まぁ良いか、それより本当にこれからのことについて考えよう。
 そうだな……まずは少しでも、彼女の不安な気持ちを解消させてあげたい。一旦はこの土地についての説明を先にしてしまおうか。知らない場所で、何も分からない状態で彷徨い続けるよりはずっと良いだろう。これが夢でなく現実であることも、多少受け入れやすくなるかもしれない。

「……ええと、ちょっと話が変わって申し訳ないんですが、何も分からない状態はとても不安だと思うので、一旦この場所について軽く説明しましょうか?」
「あっ……確かにそうね。助かるわ」
「はい。ここは【陽厦】っていう日本都市で、俺達が今居るのは四つある地区のうちの一つ、[星雷地区]ってところなんです。周辺の施設も結構充実してて、過ごしやすいところですよ」
「へぇ……ようか、せいらい……? 何となく聞き覚えがあるような……いえ、でも聞くまでは全然そんな単語は頭の中に浮かんでこなかったし。本当に何も分からない……これから色々教えてもらっても良い?」
「もちろんです、少しずつ教えますよ。あっ、そうだ! まだ俺の名前言ってませんでしたよね? 俺は火華柚希っていいます。えっと、これ……」

 俺は分かりやすいように、肩から提げた鞄からまた急いでスマホを手に取り、メモアプリに名前を漢字で打ち込んで彼女に見せた。彼女は俺の示した画面を覗き込むと、キラキラと目を輝かせ喜んでいるようだった。

「柚希、くん……良い名前ね! 今日は本当にありがとう! やっと話が出来る人が居て安心したわ……」
「いえ! 俺も気付けて良かったです。路地の方は偶然覗いただけだったので……それに、困ってる人が居たら放ってないですよ!」
「! ふふっ、親切な人に出会えて本当に良かった……えっと、私のことは……とりあえず、あやって呼んで。なんとなく思い浮かんだものなんだけど、しっくりくる感じがするの」
「はい、あやさんですね。分かりました」
「あっ、あと! 敬語は使わなくていいわ!」
「そうですか……?」
「そう!」
「分かりました……じゃなくて、分かった」

 俺の返事を聞いた後、彼女は出会ってから一番の輝かしい笑顔を見せてくれた。少し元気を取り戻したように見える彼女には、とても活発な雰囲気を感じる。表情もすっかり和らいで、この数分間でだいぶお互いに打ち解けられてきたかもしれない。俺も、つい嬉しくなって笑い返した。
 そうしてお互いに忙しなく、やや遅くなった自己紹介を終えた。
 これからのことだが、恐らくは彼女の失われた記憶を取り戻すことが最優先になる。それが無ければどうにも出来ない。まずは関係のありそうな事柄から片っ端に調べていくしかないだろうが、今は手掛かりもゼロに等しい。あぁ、こんな時に恋羅が居たら……もう少し良い対応が出来たんだろうな。
 俺が今出来ることと言ったら、彼女を明るく暖かい場所でゆっくり休ませてあげることくらいしか無いかな……それに、俺の体もそろそろ凍えすぎて限界だ。冷たい風が上からも横からも吹き荒んできて全然止まない。昼の気温がわりと平気だったせいで、こんなに寒いのにマフラーも手袋もつけていない愚か者だった。逆に風邪を引きたがっているとしか思えない。無理だ!
 よし、決めたぞ……悔しいが今はどうせ何も出来そうにないんだ。彼女にはとりあえず一緒に家に来てもらって、そこで落ち着いてまた話し合う感じで提案してみよう。会ったばかりの女性を家に誘うのはなかなか勇気がいることだが、緊急時だから仕方ない……よな……? 言うぞ……いや、どう言ったら良いかな……?

「ふふっ、なんだか色々悩んでるみたいね。顔に全部出てるわよ」
「へ? あぁ、よく言われる……ちょっと待ってね……」
「どうしたの?」
「えっと……あ、あやさん……急で申し訳ないんだけど、もう日も落ちてきてだいぶ冷え込んできたし、良ければ家に来ない……? ここにずっと居たら風邪引いちゃうから、向こうでまた話すとか……」
「家? ……えっ! 行って良いの!?」
「う、うん……あやさんが嫌じゃなければ……あっ、心配しないで! 俺以外にも妹が一緒に住んでるから、二人きりとかじゃないよ……!」
「全然! 嫌じゃないわ! ありがとう!」

 おぉ……有り難いことに何とも勢いのある、俺にとっては予想外の反応だった。もしかしたら俺が思っている以上に、彼女は外で彷徨っていた期間が最悪で大変だったのかもしれない。
 そんな若干驚いた俺の様子に気付いてか、彼女は少し照れるように頬を赤らめていた。そうして慌てて訂正する。

「ちょ、ちょっと今のは無し……! びっくりさせちゃったわよね……でも、本当に嬉しくて……! ずっと独りで外に居たから……!」
「そっか、本当に大変だったね……えっと、じゃあすぐ近くだから行こうか」
「うん! よろしくお願いします!」

 元気いっぱいな返事だ。ようやく見れた彼女の眩しいほどの笑顔から本当に喜んでいることが伝わってきて、俺も嬉しい。
 よし、そうと決まれば早く帰ろう!

「あっ……誰か覗いてるわよ……?」
「え!?」

 いきなり何だ? 覗いてるって?
 あやさんの一言で俺は急に焦ってしまい、指差された路地の出口を振り向いた。しかし、そこには誰も居ない。急いで路地から大通りへと出て周辺も見渡してみたが、それらしき人影は見当たらなかった。ただの通行人? もう離れていったのだろうか。
 何だか恐くなってきた……ただの通行人なら良いが、それはそれとして俺のことを気味悪がられた可能性がある。ずっとこんな薄暗い路地で話し込んでるもんな……不審者に思われてたら嫌だな……。
 一通り確認し終えた俺は後ろを振り向いて、あやさんへと視線を戻した。俺とは違い、あやさんはその場から動いていないようで二人の間には少し距離が出来てしまっていた。それでも赤いワンピースを着た彼女は、見失う方が難しいくらいにとても目立っている。

「あやさん、特に誰も居ないよ……誰が覗いてたの? 普通に通行人かな?」
「……私、ここで何かあった気が……する……」
「え?」

 大通りの方に出た俺のことを、路地の奥に佇んだままでいたあやさんの赤い瞳がじっと捉える。その一瞬だけ、二人の間に今まで流れていた和やかな空気が凍てつくように変わったような気がした。

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