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​◆2.彷徨う少女(2)

 数秒間の沈黙のあと、俺は再び尋ねる。

「あやさん、ここで何かあったの? もしかして、忘れちゃった記憶とか?」
「…………なんとなくだけど、私はこの路地の中から、あの大通りを見た景色を記憶してる……今の柚希くんみたいに、焦ったように走る誰かを見た……」

 少し離れた距離から見えるあやさんの表情は、やや強張っているように見えた。衝撃を受けたような……とにかく、あまり良いとは言えない感じだ。単純な憶測だが、もしかしたら、その記憶は彼女にとってあまり良くないものになっているのかもしれない。
 それに、この路地では最近大型の怪物が出て暴れ回っている。
 通称“怪物騒動”。一応この件に関しては、怪物による複数の怪我人が出たものの、死者が出たとは聞いていないのだが……この路地での出来事に関する記憶だとすれば、彼女のただならぬ様子からしてその騒動に巻き込まれた被害者である可能性も考えられる。というか、今のところはそれしか思い付かないだけなのだが。


 とにかく今は情報が欲しい。彼女には少し無理をさせてしまうだろうが、記憶の手掛かりになりそうなことは逃さず追及すべきか……?
 焦ったように走る誰かを見たと、彼女は言っていた。一応それだけ、更に情報が引き出せないか聞いてみよう。

「あやさん、その、見たって言う誰かの顔とか背格好は思い出せそうかな?」
「……ご、ごめんなさい。どうしてもこれ以上は思い出せない……何か、何か見たのよ……ぼんやりとは出てきてるんだけど……」
「そっか、分かった。無理に思い出さなくても良いよ。ちょっと辛そうだから……まずはゆっくり休もう」
「…………そうね」
「ほら、そこは暗いよ。迷子にならないように早くこっち来て!」
「! ええ」

 彼女が赤いワンピースをひらひらさせながらスーッと俺の元へと飛んでくる、本当に不思議な光景だ。
 ……今は無理に追及すべきではないな。いや、正直に言えば先ほどのことがまだ内心とても気になってはいるのだが、それ以上にようやく元気になってきた彼女に無理をさせて、また悲しい気持ちにさせるようなことはしたくなかった。とりあえず、このことは一旦保留にして、また他の情報が揃ったりしてきたら聞き直してみれば良いかな。


 気を取り直して、俺と彼女はようやく薄暗い路地を抜けて大通りへと出た。ここ周辺は歩道に沿って設置された街灯が所々が照らしてくれていて、暗くなってきても安心感がある。ようやく視界が明るくなって、清々しい気分だ。

「よし、じゃあ行こーー」
「あっ……! 向こうに……」
「ん!? こ、今度どうしたの? また何かあった?」

 やっと帰れると思ったのも束の間、再びあやさんが何か言い出したと思ったら、俺を抜かして前へと飛び出していってしまった。
 何か、急用でもあるのか?
 いや、それよりも……彼女が真っ直ぐ向かったのは横の道路。今も左右から、勢いよく車が走り去っていくのが見える。当然だ、近くにある横断歩道側の信号機はいま赤色を示しているのだから。
 それでも彼女は止まる気配が無い、そのまま向こうへと急いで渡ろうとしていた。あんなに車が止まることなく走っているのに……!

「待って、あやさん! そっちは――!」

 俺は前方のあやさんを止めようと咄嗟に駆け出して、慌てて道路の方へと手を伸ばしてしまっていた。そのとき俺は、あやさんと普通に接していたあまりにうっかりしていたのだ。本当に馬鹿なことを。


 ――あやさんは幽霊だ。人も壁も車も透けて触れられない。
 この状況で道路にいきなり飛び出して、本当に危ないのは誰か……気付いた時には遅かった。


 今まさに俺はあやさんについていく形で、一緒に道路へと飛び出す寸前になってしまった。駆け出したことで勢いづいた体では、重心が前へと傾いて瞬時に引き返すことなんて叶わない。
 あやさんはきっと大丈夫だろう。だけど俺は生身の人間だから、このままじゃ……引き留めようとした対象を失い、宙を空振った俺の手の指先に、チリッと裂くような冷たい風が触れて、俺は一瞬で身の危険を察知する。
 血の気が引いていく、全身に緊張が走った。
 右側から眩しいライトが俺に当たる。もうすぐそこに、一台の車が迫っていた。クラクションが、大きく鳴り響く。
 分かっているのに、止まれない……!

「っ……!」
 
 こんなことで、こんなところで、なんて馬鹿なことを――そう強く後悔した矢先、俺はグンッと後ろから急に抱きついてきた誰かに、強い力で歩道側へと引っ張られた。視界がぐるんと暴れる。勢い余って、俺とその人は固いアスファルトの上に尻餅をついた。

「くぅ……」

 頭を打たないように反射的に地面をついた手がヒリヒリと痛むが、そんなこと無事に助かったことを考えると些細なことだった。   
 まだ心臓がバクバクと高鳴っている。た、助かった?

「っはぁ……はぁ……危なかった……」

 俺のすぐ後ろから、だいぶ息を上げた女性の声がした。恐らく近くに居たところで俺に気付いて、急いで走ってきてくれたのだろう。いや、これはゆっくりと安心している場合じゃない。
 俺は慌てつつもなんとか急いで立ち上がってから、俺と同じように地面にへたり込んでいた女性に手を差し出した。
「あっ! ありがとう!」、そう言いながら女性が手を取る。俺はそれを確認してから彼女の手を引っ張り上げて立つのを手伝った。
 二人で各自ズボンなどに付いた土汚れを払ったあと、ようやく互いに落ち着いたところで、俺はすぐ女性に対して頭を下げて謝罪した。

「すみませんでした……!」
「い、いえいえ! 気にしないでください! 無事で良かったです!」

 遠慮するように胸元で手を振る女性は、俺よりも少し小柄だった。引っ張る時にはだいぶ力が必要だっただろう、大変なことをさせてしまったな……。
 女性はその長い髪を綺麗に後ろで一纏めしているが、深く帽子を被っており表情はよく見えなかった。それと胸元に銀色のブローチがキラリと光る白と青を基調としたトレンチコートに、下は黒のスラックスと、だいぶきっちりとした服を着ている……あぁ、これは確か“中枢機関”の制服だ。
 中枢機関はその名前の通り、この国における中心的な存在。細かい説明は一旦置いといて、つまり彼女はそこに所属する職員のようだ。

「中枢の方ですか……?」
「そ、そうですね……! えっと、丁度この辺りで用事があって、そしたら貴方が飛び出しそうになってたのを見掛けたものだから……間に合って良かった……」
「用事……じゃあ、急いでますよね? お時間取らせてしまってすみません!」
「いえ、そんなに急ぎじゃ……というか、大丈夫なんですか……?」
「だっ……大丈夫です!」
「そうですか……? 本当に大丈夫なら良いんですけど、もっと自分の身を大切にしてくださいね。危ないですから。それでは、あた……私もこれで失礼しますね」
「はい! ありがとうございました!」

 俺はもう一度、頭を下げた。危うく大惨事になるところを助けてもらったんだ、彼女には謝罪と感謝をどれだけ伝えても足りない。

「も、もう……謝らなくていいですから……!」
「あっ、すみません……」
「………………」


 一通りの会話が済んだ後、目の前の女性はすぐ足早に離れていった。若干恥ずかしがるように逃げていったようにも見えたが、気のせいだろう。しかし、少しだけ驚いた……中枢の人はなんだか厳格で関わり難い印象を勝手に持っていたのだが、ああいう親しみやすい人も居るんだな。考えを改めないと。

「はぁ……本当にやらかした……」

 まだ、心臓がバクバクしていて落ち着かない。
 もう、終わりかと思った。
 女性のおかげで俺は無事に済んだが、人に迷惑を掛けてしまったのが心苦しく感じる。申し訳なさでいっぱいになった。
 今回は運の良さに助けられただけ、こんな初歩的なミスをしでかしたことは本当に良くなかった。これからはもっと気を付けよう……そんな風に考えていると、丁度横断歩道の信号がパッと青に変わった。タイミングが良い。俺は一応左右をよく確認してから、素早く横断歩道を渡った。

「ゆ、柚希くん…………」

 ……横断歩道を渡った先には、まるでこの世の終わりのような青ざめた表情のあやさんが、脱力して俺のことを見つめていた。

「ごめんなさい……っ! 早くしないと逃げちゃうから、追うのに焦っちゃって……危ない目に遇わせるつもりはなかったの……!」
「良いよ、俺は無事だから! それより、何があったの?」
「あっ……こっち、建物の裏の方に来てもらえる……?」
「分かった!」

 この先には大きなスーパーが建っている。丁度噴水広場と真向かいの位置だ。スーパーの歩行者用入り口から駐車場の端を安全に通りすぎていって、彼女と俺が向かったのは建物の丁度裏側。普通なら従業員くらいしかあまり立ち寄らなさそうなこの場所には、なんだかよく分からない大きな機材やゴミの入った袋などがいくつか並べられていた。あんなに急いでまで、あやさんは一体ここに何の用事があるというんだろうか?

「ほら、あそこよ……動いてるのが見える? あの生き物のこと、柚希くんに聞きたかったの。知ってたりする?」
「…………」

 隣に居るあやさんは小声でそう話しながら、俺達から少し離れた壁面の一ヶ所を指差した。目を凝らしてみると、そこにはゴミ袋に紛れて何か小さな黒い塊が、壁際でモゾモゾと動いているのが見えた。
 生き物の大きさはサッカーボールほどだろうか……ここら辺で見るのは野生の犬や猫くらいだと思うが、それはどちらにも当てはまらないような、全然違う奇妙なものに映った。強いて言うならうさぎに近い、大きな耳が二つに、ずんぐりとした丸い躰をした見慣れない姿をしている。それでも、うさぎではなさそうだ。


 段々と、嫌な予感がしてきた……アレの正体として思い付くのは、もう俺の中では一つしか残っていない。しかもそれが当たっていたとしたら、今の状況がとても最悪なことを意味している。
 あの生き物は、もしかしたら……。

「怪物、かもしれない……」
「怪物……?」
「うん」

 まだ確証は得られていないが、可能性としては非常に高い。
 “怪物”――黒の怪物とも呼ばれるその生き物は、ここ【陽厦】都市内において五年前から確認されるようになった。その姿は呼び名の通り真っ黒で、形容し難いような奇怪な躰に白く光る目玉が二つ付いているのみという、何とも不気味な見た目をしている。俺も時たま怪物の姿を間近で見た時には、その異様さに思わずゾッとしてしまう。
 神出鬼没な彼らの目的は未だよく分かっていないが、"人間のみ"を標的にして度々襲い掛かってくる非常に厄介で恐ろしい存在だ。今この都市を一番に騒がせている問題ごとであり、最優先に対処すべきことだと言っても過言ではない。

「姿だけ見た限りだと、怪物だと思う。怪物は人を見掛けたら、すぐに鋭い爪で攻撃してきて危ないんだ。あやさんの場合はどうなるか分からないけど……誰か襲ったりしたのは見た?」
「? いいえ、それは無かったわ。柚希くんは物知りなのね」
「いや、全然そんなことないよ! 元々怪物関連のことは調べてたってだけで……じゃなくて、まずはあれを何とかしないと。野放しにしてたら、いつか誰か襲われちゃうかもしれない……」

 しかし、あの生き物が怪物かもしれないとは言ったものの、それが近辺で出現していることを示す警報は鳴っていないのが、唯一俺は気になっていた。実はこの都市では至る所に、怪物を探知する小さめの機械が壁や電柱に設置してあり、怪物の熱源と一致するものが周辺に引っ掛かると近くの該当機械から警報が鳴る仕組みになっているのだが、それが故障しているのかもしれない。
 俺はすぐに周囲を見渡して、前方右側の電柱に探知機が設置してあるのを見つけると、それが正常に機能しているかを確認してみる。探知機は異常なしである緑のランプがしっかり点灯していた。どうやら故障はしていないようだ。
 じゃあ、あの生き物は何なんだ?
 そうして二人でコソコソしている間にこちらの存在が気付かれたのか、生き物はすぐ動きを見せた。怪物と同様に白く光る目が、俺達を見つめてくる。

「っ……!」

 俺は……その瞬間に確信した。
 探知機に反応は無いが、あれは怪物で間違いない。俺は何度もあの背筋が凍るような鋭い眼光を見てきたんだ。この感覚、忘れるわけがない……!
 あのままにしては駄目だろう、俺がいま急いで生き物を捕らえて倒すしかない。小さい個体だから、俺一人でも十分いけるとは思うが……今はまともな武器も持たない状態だから、ひたすらに不安だ。刺せれば良いから、ペンでなんとか……?


 しかし俺が決断を悩んでいるうちに、目の前の生き物は俺達とは反対方向へと飛び跳ねるように逃げ出してしまっていた。

「あっ、待って!」

 それを見たあやさんが、追い掛けるように前へと出る。
 不味い、俺も行くべきか……?

「…………」

 いや、こんな暗くなってきたところで追いかけっこなんてし始めたら、簡単に見失ってしまうだろう。今回は先程のあやさんが言っていた、“あの生き物が人を襲っているのは見ていない”という言葉を信じて、大人しく退くしかない。

「あやさん!」
「! 柚希くん、逃げちゃうわよ」
「追わなくていい! 危ないし、また迷子になっちゃうよ!」

 俺はあやさんが離れていってしまう前に、瞬時に声を張り上げて今度はしっかりと彼女を制止させるように伝える。先程の失敗を思い返したためだ、彼女のことは掴んで止めることは出来ないから。

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