top of page
​◆2.彷徨う少女(3)

 幸いにも、彼女はすぐにその場に止まってくれた。

「! た、確かにそうね……分かったわ」
「うん……」

 とても心配だけど、今回ばかりは仕方がない。
 ろくな武器も持たない状態ではそもそも戦ったところで返り討ちになる確率の方が高いだろうし……少し長さがあるだけの文房具で対応しようなんて馬鹿馬鹿しい考えを持つ時点で、もっと冷静になるべきだった。この先で、あの生き物による被害が出ないことを祈るしかない。

「あっ、ねぇ柚希くん。本命はあの生き物だったけど、他に聞きたいことがあったの。丁度そこにあるんだけど、見てもらっていいかしら?」
「?」

 続いて、俺の元に戻ってきたあやさんと一緒に再び壁面の一ヶ所を見てみる。そこは先程まで謎の生き物が居た場所で、あやさんの指差す“聞きたいこと”はすぐに見つかった。

「何だこれ……」

 なるほど……そこには確かに、白くキラキラと光るような線でハッキリと、何かが十センチくらいの小さなサイズで落書きされているようだった。でも、何が描かれているのかは全く分からない。文字のようにも見えるが読めそうにはないし、これは一体何なんだろう……?   
 試しに線を指で軽くなぞってみるが、塗料か何かが付いているような感覚もまるで無かった。謎すぎる落書きだ。

「それね、さっきの黒くて小さな生き物が、別の壁に同じものを描いてるのを前にも見たの。きっと、色んなところに落書きしてるんじゃないかしら……何か意味でもあるの?」
「…………」

 さっきの小さな生き物が、こんな複雑そうな落書きを?
 しかも、あの生き物がサッカーボールサイズだとして、落書きのされている位置はその三個分上だ。踏み台でも持ってこなければ書くのは難しいそうだが、どうやって書いたのだろう。
 俺はすかさず、あやさんにその時の様子を聞いてみると「直接触ったりはしてないようだった。ただ小さな手みたいなものを、壁に向かって翳して動かしてる感じだったわ」と答えた。
 あやさんが嘘を吐く理由も無いだろうし、実際に見たのならやっぱり本当なんだろう。あの生き物とこの落書きは深く関係があるのか。落書きが良くないことなのは大前提として、重要なのは“この落書きが意味すること”なんだろうな。ただ無害で無意味ないたずらか、もしくは何か深い意味が込められた有害なものか。
 しかし、これに対して判断を下すにはまだまだ材料が少ない。

「う~ん、謎すぎるね。そもそも俺はこんな落書きがされてること初めて知ったよ……他の場所にも落書きがしてあるのを見たって言ったよね? もっと沢山あったりするの?」
「ええ。実はここ含めて、四ヶ所くらいは見てるかも……」
「四ヶ所も!? 十分多いよ! えぇっ、心配だな……アレが怪物だとしたら、後から何か悪いことが起きる可能性もあるし……」 
「怪物ね……」
「まだ確定ではないけどね。一応怪物が出たら警報が鳴るんだけど、今回はそれが無かったから気になるんだ。一応聞くけど、あやさんが前にあれを見掛けた時に警報は鳴ってなかったかな?」
「いいえ、何も……この場所はなんだか大変なことになってるのね」
「うん……」

 俺とあやさんは深く考えるように、お互い顔を軽く伏せて神妙な顔になっていた。俺は……怪物によるこの痛ましい現状が、本当に耐えられない。考えるだけで、とても辛くなってくる。これまでの五年間どれだけの人が犠牲になっただろう、この痛ましい日々はいつまで続くんだろう……怪物により齎される被害は、“恐怖と傷だけじゃない”。俺は、俺達は、そのせいで……たくさん苦しく痛い思いをして……。
 駄目だ、また暗い気持ちになってしまう。前向きに考えないと。念のため、怪物に似たあの生き物と落書きついては留意しておこう。この新たな情報は、俺の中でもだいぶ期待値は高い。
 怪物か、もしくはそれと強く関係しそうな姿の生き物が落書きをして回ってるなんて……もしかしたら、ここ暫く進展が見られなかった怪物騒動をどうにかする決定的なものに繋がる可能性だってありそうだ。さっきまであれだけ驚いて疲れてきていたのに、今は胸が高鳴っているのを感じる。

「あやさん、教えてくれてありがとう。あの小さな生き物とこの落書きについては、明日またしっかり調べてみるよ」
「ええ! 何なのか分かると良いわね」
「うん……というか、もしかしてあやさんはあの生き物の位置が分かったりする? 近くに居るの気付いてたよね」
「そうなの! 本当に近くに居る時だけなんだけど、何故か分かるのよね。いつも色んな所に落書きしてる……」
「……それなら、捕まえてみるのが一番良いかもね」
「確かにそうね。でも捕まえられるかしら、あの生き物はむしろ人目を避けるように移動してたわ。あっ、それと柚希くん……さっき危ない目に遭わせちゃって本当にごめんなさい。何回謝っても足りないわ、もう大人しくするから……」
「え? もう、そんなに謝らなくても大丈夫だって! 良い発見があったし、助かったよ。じゃあ、今度こそ帰ろう!」

 ここでの用事も一段落。俺と彼女はスーパーから離れると、また信号を渡っていって元の道へと戻った。目の前には昼に恋羅と昼食を食べた噴水広場があって、その左側にはまだ入ったことはないけど人気のお洒落なカフェが建っている。俺の家は、噴水広場とカフェの間にある小道を進んだ先の、閑静な住宅街の中程にある。


 二人で黙々と住宅街を道なりに数分ほど歩いていって、やっと右側の方に見えてきた。俺はそこで分かりやすいように自宅の建物を指差して、分かったと言わんばかりに頷く彼女に場所をしっかりと示した。うちの家はごく普通の二階建ての建物だ。家の周りには小さな庭と車一台分の駐車スペースがあるが、そこはいま特に使っていない状態で空いている。
 
「やっと帰れた……いま開けるから、遠慮しないで入っちゃって」
「お、お邪魔します……」
「いや、そんなに緊張しなくても……本当に、いきなり来てもらっちゃってごめんね」

 扉を開けて入ってから薄暗い玄関先で靴を脱ぎ始めると、俺はやっと家に帰れた安心感で落ち着けた。それとは反対に、彼女は横で相変わらず緊張するようにそわそわと周囲を見渡しているようだった。初めて訪れる場所はやっぱり慣れないよな。

「あやさん。入ってすぐに居間があるから、とりあえずそこでゆっくりしてね。俺は横の台所で夕飯作らないといけないから、それが終わったらまたこれからどうするか話す感じで良いかな?」
「大丈夫よ、ありがとう。なんだか温かい雰囲気で落ち着くわね」
「はは……妹も帰ってきたら賑やかになるよ。とってもしっかりしてて、俺はたくさん手助けしてもらってるから有り難いんだ。今は二人で頑張って生活してるから……」
「へぇ……そうなのね」

 玄関から続いていく廊下を二人で歩いていく。しんと静まり返る家の中で、トントンと一人分の足音だけが響く。
 俺の後ろを大人しくついてくるあやさんに目を配ると、引き続ききょろきょろと辺りを見渡しているようだった。そんなにまじまじと何気ない生活スペースを見られると、段々と恥ずかしくなってくる。別に散らかってはいないが。

「えっと、妹さんと二人で生活してるって……ご両親は……?」
「あぁ、仕事が忙しくてなかなか帰ってこれないってだけなんだ。もう慣れたし、そんなに大変でもないかな」
「へぇ……」

 家に兄妹二人だけで生活する日々は、他人から見たら少し心配だったり寂しく思ったりするかもしれない。両親は健在なのだが、俺が高校に入った去年あたりから仕事で遠くに出掛けることになってしまいほぼ家に居ない。
 しかし生活するには問題ない。両親からは生活費をちゃんと貰っているし、週に一度くらいの頻度で出先からいくつかのお土産と手紙が家に送られてくる。添えられている近況の手紙からは、暫く会えず離れていたとしても両親の温かな愛情を感じ取ることができて、俺達兄妹はそこまで寂しい思いはせずに過ごせている。一切寂しくならないかと言ったら、それはまた違うが……。
 そんな話をしながら歩いていると、とっくに居間に着いていた。当たり前だが、家全体がだいぶ冷えている。うぅ、キツい。
 寒さに震える俺は、すぐに壁際のスイッチをカチッと押しライトを点けて、エアコンの暖房もオンにした。暖かい風が少しずつ、明るくなった部屋を循環していく。すぐには暖かくならないのでまだキツいのだが、いい加減上着も脱いでしまおうと自分のコートに手をかけた。脱いだコートは一旦荷物と共に端の方に畳んでおこう。
 居間にはカーペットが敷かれていて中心に木製のローテーブル、その周りには暖かみのある茜色の座布団を置いている。その近くの壁側にはテレビも設置してあって、ここはまさにゆったりと過ごせる家族団欒の場だ。廊下を挟んだ反対側にある台所には、調理台・冷蔵庫・食器棚など……一般家庭と大して変わらないだろう。
 一連の流れが済んだところで隣に居る彼女に視線を戻すと、彼女とパチッと目が合った。直後に何故か彼女がニッコリと笑顔を向けてきたため、俺も何となく笑い返した。いや、何なんだ。やり取りが下手か?
 この期に乗じて改めて確認してみたが、彼女の格好は肩が盛大に出ているタイプの真っ赤なワンピースになんと裸足だ……それなのに先ほどは俺と違って寒さに震えるような素振りもなかった。彼女のふわっと広がる雪のように白い髪は肩に丁度付くくらいで、前髪には赤く小さな珠が三つ付いた特徴的な黒いピンを二つ着けている。綺麗な赤い目は光を反射せずともキラキラと輝きを放っていて、不思議と活力に満ち溢れているように見えた。俺の目も赤いのだが、同じ赤色と言ってもやっぱり色合いや輝き方は微妙に異なってくるのかな……なんて考えてしまったり。

「柚希くん、この格好気になるの? 全然寒くないから大丈夫よ!」
「えっ、そうだったんだ……感覚が無いってこと?」
「そんな感じかしら。あとお腹も減らないし、眠くもならないわ。私だけ別空間に居るみたいな気分よ……」
「不思議だね……じゃあ、そこの居間でゆっくりしてて良いからね。俺は台所の方に居るよ」
「……ええ、ありがとう。本当に助かったわ」
「そんなに気にしなくて良いよ。俺の方こそ、また何か困ることがあれば遠慮なく言ってね……! 夕飯作りながらでもこれからのこと考えてみるから、安心して任せて!」
「これからのこと……ごめんなさい、情報が無さすぎるわよね。さっき居た路地でのことも引っ掛かるわ。確実に何かあった感じはするんだけど……」

 それは確かに重要な情報に成り得ることだ。彼女にも一応、過去にあの場所で起きたことを話してみようかな。怪物騒動のことだ。

「……あの場所では、先月に大型の怪物が暴れまわってるんだ。そこで、だいぶ怪我人が出たりしたんだよ」
「怪物……さっき説明してくれた危ない生き物ね?」
「うん。まだ可能性としてだけど……あやさんはもしかしたら、その被害者の一人かもしれない……」
「……死んじゃったの?」
「! いや、被害者と言っても、みんな怪我くらいで済んでるんだよ。えっと、またこれから調べてみるから」
「そう…………」
「…………」

 俺って呆れるほどに、全然上手く言葉を返せない。
 しかし、無理にあやさんに気を遣ったわけではなくて、本当に死者は出ていない。というか、これまでの五年間怪物騒動に関連した死者は一人も出ていない筈だ。不思議なことに、ゼロだ。
 そうなってくると、恐らく亡くなっているであろう彼女は直接的には関係が無いのかもしれない。しかし、確実にあの路地で彼女なは何か重要な出来事があったはずだ。それをどれだけ追及出来るかが、今後の鍵になるんじゃないかと個人的には思っている。
 あやさんが頼れるのは、彼女のことが“見える”人間だけ。とりあえず今は俺が何とかしてあげたいのだが、今持ち得る知識では正直すぐに解決へは導けそうに無くて、俺は自分のことをひたすら不甲斐なく感じた。まだまだ分からないことだらけだ。

「ねぇっ、端っこにたくさん置いてある小さなクッション可愛いわね! ふふっ、柔らかそう……」
「……あぁ、それは妹が作ったものなんだ。裁縫が得意で、色々……クッションとかぬいぐるみも部屋にあるんだよ」
「そうなの!? 後で見させてもらいたいわ……凄いわね、私には絶対そんな器用なこと出来ない……!」

 あやさんがキラキラと目を輝かせて、とても感激するように妹自作のカラフルなクッションを隅々まで眺め始めていた。そのはしゃぐ様を見て、俺は心の底から彼女を見つけてあげることが出来て良かったと思えた。ここに来るまではとても苦労したけど……あやさんをこうして温かく明るい場所に連れて来れて良かった。彼女には、苦労したぶん少しでも穏やかに過ごさせてあげたい。
 それにしても、今日は随分と色々なことがあって忙しなかったな……もうくたくただ。体もだいぶ冷えたから、温かい鍋でも作ってゆっくりしよう。丁度材料もあったと思うし……どうせなら、あやさんも食べられたら良かったのにな。妹と三人で鍋を囲えたら、きっと楽しそうだ。
 ………………。
 そう言えば、検査帰りに恋羅と微妙な感じに分かれてしまったのが心残りだった。明日会うのが少し気まずくて、思わず苦い顔になってくる。恋羅とは度々言い争いになってしまうけど、もう少し穏やかに接していきたいな。せっかくまた仲良くしてもらえてるんだ……明日また落ち着いて話してみよう。
 上手くいけば、今日あったことについても相談に乗ってもらえるかも。恋羅に協力してもらえたら心強いな。

「………………」

 ……うぅ、あまりにも不安すぎる。一旦考えるのは止めだ。
 とりあえず、今日はしっかり休んで明日また頑張ろう!

bottom of page