
◆3.いつもと違う朝(1)
あの日の出来事は、いつまで経っても鮮明に覚えている。
五年前の夏、この都市に初めて黒の怪物が現れた日。あれは幾つもの脚が付いた、大きな蜘蛛のような姿をしていた。それが、数えきれない程に沢山……地獄のような光景だった。
そのとき俺は運悪く外に居て、怪物が振り回していた鋭い爪先の一つを背中に受けた。その一撃だけで怪物はまた次のターゲットへと移り去っていったが、とても痛くて苦しい時間が長く続いた。背中から全身に広がる痛みと出血で意識が朦朧としていく俺のすぐ近くで、大切な友人が何度も何度も俺の名前を呼ぶ声が、耳から離れない。ずっと泣き叫ぶ悲痛な声が……今も、忘れられない……。
あぁ、俺のやったことは正しくなかったんだ。
じゃあ、どうすれば良かったんだろう?
分からない。ごめん、ごめんなさい……。
………………。
もう、やってしまったことだ。今更後悔しても、後戻りなんて許されない。このまま突き進んでいくしかない。
今回のことだって、ただの時間の問題に過ぎない。いずれはこの都市に居る皆がこうなるんだから、わざわざ一人一人に対して心を痛めていたら、“罪悪感”に押し潰されて耐えきれなくなる……これで良いんだ。そう、自分に言い聞かせ続けるしかない。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ。
「ん…………」
いつもの聞き慣れた電子音が、静かな室内に鳴り響く。
意識を覚醒させるには十分な音量だ。自室のベッドで寝ていた俺は、のそのそと枕元に置いていたスマホを手に取ると、目覚まし用に設定してあったアラームを画面に触れて止めた。
薄暗い室内には窓からカーテン越しに、早朝の柔らかく暖かな陽の光が入り込んでいた。部屋が窓枠の分だけ一直線に照らされる、この光景を見る度に、もう朝か……なんて思ってしまう。
「………………」
昔のことを夢見たようだ……昨日、色々考えていたせいか。
でも、よくよく思い返してみると、後半あたりは記憶に無い。だって怪物騒動の件に関しては仕方がないことだったとか、いずれ皆がそうなるなんてことは一切考えていない。そんなわけないじゃないか。それなのに……妙にしっくりくるような感覚もしてくる。言葉の意味は全然理解出来ないのに……これは一体、何なんだろう?
実を言うと、昔怪物に傷を負わされてから、俺の記憶や思考には“俺自身ではない別の何か”が雑ざり込んでいるような気がする。 ちょっと、心配だ。いつの間にか、俺が俺じゃなくなって……もしかして、怪物に体や意識を乗っ取られたりとか……? 恐い。うぅ……目眩がしてくる。こんなこと考えるのは止めよう。
先程鳴ったアラームは、毎朝六時に設定している。その頃には、もう起きて身支度や朝食を作ったりしないといけない時間だから。なんとも寝覚めが悪いが、とりあえず二度寝だけはしてしまわないように、俺はベッドから上半身をゆっくりと起こした。まだ頭がぼーっとしているのかもしれないな。
……数分後、俺は寝間着を外出着に着替えてから、二階の自室を出て一階へと階段をゆっくり降りた。格好に関しては、俺は大体シャツやジーンズといったシンプルな格好を選びやすい。動くのに支障がなければ、それで良いんだ。あぁ、スマホを枕元に置いたまま忘れてしまった。後で荷物と一緒に取りに戻れば大丈夫かな。
そんなことを考えながら、俺は一階に着いてすぐに横の居間をちらりと覗いた……う~ん、居ない。昨日の夕方から家に招いていた“あやさん”だが、今朝はその姿が見当らなくなってしまった。
ちなみに、後から帰ってきた妹はあやさんのことが見えなかったので、不審に思われても困るからと彼女との会話は一次中断となり、あやさんは静かに家のそこかしこを興味津々に探索したり静かにテレビを眺めるなどして過ごしていた。
流石に俺や妹が寝る時までは一緒に居られないので、その時はせめて彼女が暗くて恐い思いをしないように小さなライトを居間のテーブルに置いてあげるくらいしか出来なかったが、やっぱりその程度では夜に独りでいる寂しさを紛らせることは出来なかったんだろうな。申し訳ない限りだ。
今はもう外に出ていってしまったか、或いは……いや、そんなことは考えたくない。俺は彼女を助けると約束をしたんだ、また会えることを祈るしかない。
とりあえずは自分の準備だ。
朝起きると俺はまず廊下を進んで洗面所へ行き、身なりを軽く整える。寝起きのままでは、しっかりとした行動が出来ない。というか、そもそもそんな状態を見られるのは家族からだとしても恥ずかしいだろう。俺は寝癖が酷いし。
正面に大きな鏡が取り付けてある洗面台の蛇口を捻り、バシャバシャと出てくる水に指先をそっと触れると、少しヒリヒリとするような鋭い冷たさで身震いした。俺は意を決してその水を両手で掬い、何度か顔に当てたあと、タオルで綺麗に水分を拭き取る。うん、スッキリとした気分だ。
それから自分の真っ赤な髪に櫛を通し整えながら、目立つような寝癖が残っていないか確認。よし、大丈夫そうだ……ちなみに俺の髪の襟足部分はいつもツンツンと跳ねてしまっているのだが、これは断じて寝癖ではない。聞けば母親からの遺伝で、髪質によりどうしても跳ねてしまうらしい。水で濡らしても、すぐにピンッと跳ねてしまうような手強さとなっている。
お次はやっと台所の方へと戻って、朝ごはんを作り始める。
まずは服が汚れないようにエプロンをして、冷蔵庫から朝ご飯の材料を取り出したりしていると……二階の方から、トントンと階段を降りる足音が聞こえてきた。妹が起きてきたみたいだ。
振り返ったそこには、俺よりも背丈の小さなパジャマ姿の少女……この家で一緒に暮らしている妹の水無月が駆け寄ってきていた。普段は左側でお団子にしている桃色の長い髪が、まだ起きたばかりなのもあって今はゆったりと肩のところまで流れている。目は俺と同じ赤色なのだが、髪色と髪質は兄妹で微妙に異なってしまったのがなんとも不思議だ。一応、ちゃんと血は繋がっている。あと年齢は俺が一七で、水無月は三歳下の十四だ。
「お兄ちゃん、おはよう~」
「おはよう。俺これから朝ごはん作るから、出来上がるまではそこでゆっくりしてて良いよ」
「ありがとう! 何作るの?」
話しながら、台所に立つ俺の手元を水無月がぴょこっと覗いてきた。そこには既に冷蔵庫から取り出した材料がいくつか並んでいるのだが、これだけ見て分かるだろうか?
「卵と玉葱と…………あっ、もしかしてオムライス!?」
「あははっ、そうだよ。あと、コーンスープ添えようかなって」
「わぁ、朝からそんな豪華で良いの……!?」
「豪華かな? いや、最近作れてないなと思ったから……」
オムライスと聞いた直後、満面の笑みで万歳しながら喜ぶ水無月を、俺は微笑ましく感じて笑みが溢れた。聞けば水無月は、俺の作るオムライスをとても気に入っているらしく、食卓に並べる度に大喜びしてくれる。朝からこんなに元気なのも嬉しいことだ。
「えへへっ、やった! そうだ、それ終わったらサンドイッチ作っても良い? 材料少し分けて欲しいな」
「何で? 今日って中学校お昼までだったか?」
「違う違う、お兄ちゃんのお昼! この卵とソーセージを一緒に焼いて、マスタードとケチャップで味付けしてパンに挟んだら、結構美味しそうじゃない? ホットドックみたいな感じ!」
「はは……確かに美味しそう。でも、自分で用意出来るから、無理しなくて良いよ。気持ちだけで……」
「ううん! 私絶対に作るから! お昼に食べてね!」
「えぇ? わ、分かった……」
半ば強引に言いくるめられたようだ。俺は幼馴染みの恋羅のみならず、妹の水無月にも弱い。でも、楽しみだな。
そうして満足げになった水無月は先程の俺と同様に洗面所へと向かっていった。俺はそれを少し見送ったあと、急ぎ朝食作りに取り掛かる。
普段は兄として率先して食事を作っている。料理をすることは俺自身とても好きで楽しい、どのくらい好きかと言うと朝昼晩全て自分が作りたいくらいには好きだ。こうなった経緯は、昔に母さんから料理を教わって、その奥深さと魅力に惹かれたのがきっかけだった。一度のめり込んでしまえば、そこから自分で様々な料理を作れる楽しさで夢中になった。
それと……これは個人的なことだが、料理をしている時はそのことで頭がいっぱいになり楽しい気分になれるので、それ以外の考えが入る隙がなくなる。つまりこの時ばかりは、俺の頭を悩ませる怪物のことも一旦離れるというわけだ。心身を乱れさせる余計な考えごとをしてしまうのを防げて良い、まさに一石二鳥なのである。
気付くと、横の居間からニュース番組の音声が聞こえ始めた。水無月が洗面所から戻ってきていたようだ。水無月は居間にある木製のローテーブル横の柔らかな座布団にちょこんと座り、いつものようにテレビを眺めていた。毎朝流しているのはお馴染みのニュース番組だ。
さて……これから作る朝食のオムライスはうちの特別レシピで、たっぷりのバターにケチャップ・玉葱・小さく輪切りにしたソーセージと甘いコーンを混ぜ合わせ、塩コショウで軽く味を整え炒めたご飯を、ふわふわな卵で包んだものだ。最後にふわふわな卵の上にケチャップをトッピングするのも忘れないように(俺は特にケチャップで絵を描いたりはしない)。このオムライスは元々母が俺達に作ってくれていたもので、気に入った俺はレシピを教えて貰い真似して作るようになった。
オムライス単体だと少し寂しいから、もう一つのコンロの方で鍋をセットして先程言った通りコーンスープも用意する。これも一から作る……わけではなく、既に出来上がったパック入りの物を鍋に注ぎ入れて、ただ温めるだけだ。コーンスープは俺の大好物だったりもする。これさえあれば、寒い季節も温かく幸せな気分で乗り切れてしまう。
調理にはすっかり慣れていたので、完成までそれほど時間は掛からなかった。それと水無月が作ると言っていたサンドイッチ用に分けておいた卵やソーセージなどの材料は、皿に分けて綺麗に置いておこう。
「よし、出来た」
俺は出来上がった二種類の料理を冷めないうちに、居間のテーブルへと順番に運んだ。すかさず側で座り込んでいた水無月がそれに気付いて、「ありがとう!」と笑顔で受け取る。俺達兄妹は、いつもこの居間の団欒スペースで、テレビを観ながらのんびりと食事をとっている。
そうしてやっと六時半過ぎ、二人で丁寧にいただきますをしてから朝食に手をつけた。オムライスをスプーンで一口分掬って口元に近付けると、バターの優しい香りがふんわりと漂ってくる。ふわふわとろとろな卵に、ソーセージの旨味、玉葱とコーンの甘さが際立つケチャップライスを合わせて頬張ると格別な美味しさだ。
自画自賛してしまうが、今回のオムライスもなかなか上手く出来たように思う。水無月の方をちらりと見てみると満面の笑みで、もぐもぐと幸せそうに口元を緩ませていた。
「美味しい~! 卵ふわふわだね~」
「良かった……また作るよ」
「うん! 楽しみにしてるね!」
そのあと俺よりも圧倒的に早く食べ終えた水無月が、台所で分けておいた材料を使ってテキパキとサンドイッチを作り上げていた。
ウキウキとした様子の水無月に見せて貰ったそれは、食べやすく斜め切りにされたソーセージをたっぶり混ぜ込んだふわふわのスクランブルエッグに、ピリッと辛みの効いたマスタードと甘いケチャップがトッピングされた、なんとも食欲のそそるサンドイッチになっていた。見た目は先程例えていたホットドッグとはかなり遠くなってしまったようだが、優しいことに食べやすさを優先してくれた結果らしい。十分美味しそうだ。
ここまでは良かったのだが、なんとこの綺麗な三角形のホットドックサンドイッチが……計十二個。これでもかと、皿の上にみっちりと並べられていたのである。丁度水無月の要望で買ってあった六枚切りの食パン二セットも使ったらしい。
……いや、多すぎる。昼に俺が一人だけで食べる量ではないだろ!
「とっても美味しそうだけど……なんか、多くないか……? 流石に一人じゃ……」
「大丈夫だよ。よし! 冷蔵庫に入れておくから食べてね!」
「えぇ……あ、ありがとう」
何が大丈夫なのか。意外となんとかなる量なのか?
水無月とのやりとりで若干困惑が残りつつも、俺はなんとか自分に向けて「いける、大丈夫」と鼓舞してみながら、少し遅れて朝食を食べ終えた。あぁ、あの大量のサンドイッチが昼に待っていると思うと、少し……いや、何故かもうかなりお腹いっぱいだ。