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​◆3.いつもと違う朝(2)

 食後には、薬も忘れないように一粒飲む。これは俺の体調を悪化させない為に大切なものだ。昨日病院から追加で貰ってあるし、暫くは不足して大変な思いをするなんてことにはならないだろう。
 飲むタイミングに関してはいつでも大丈夫らしいが、あまり間隔を空けすぎないのと飲み忘れ防止を考えると、基本的には食後が良いそうだ。そう言えば……昨日恋羅と一緒に昼食を食べ終わった時、恋羅は特に薬を飲んでいなかった。朝もどこかで飲んでいるようには見えなかったし……ちゃんと飲んでいるか心配だ。
 でも、昨日話していた通り、怪物や体調に関する話題は恋羅にとって嫌な気分になりやすい繊細なことだ。俺から話題を振ったら尚更……また空気を悪くしてしまうだろう。いくら心配だとしても、聞くに聞けない。ましてや薬をしっかり飲んでいるかなんて、そんな初歩的なことをわざわざ聞くべきか? また恋羅から「柚希は僕の親なの?」なんて馬鹿にされる、絶対に止めた方が良い!


 よし、後は食器類を洗って周りを片付けたりして、改めて身支度と学校に持っていく荷物の準備を済ませるくらいだ。
 水無月はというと、同様に準備を済ませて、俺よりも少し先に学校へと出掛けて行く。中学の始業時間は八時ちょっと過ぎからだったか……俺はいつもそれを見送るような感じだ。
 髪をいつもの綺麗なお団子に縛って、きっちりとした白と灰の落ち着きある色合いの制服を身に纏った水無月は、荷物の入ったリュックを背負い準備万端と言わんばかりに、元気いっぱいの笑顔で家を出る。それは小さな頃に、一緒に学校へと向かっていた日々から全然変わらない。毎日、楽しそうに見える。

「いってきま~す!」
「いってらっしゃい。気を付けて行くんだぞ」
「うん! お兄ちゃんもね!」

 それから十数分後には、俺も戸締まりなどをしっかり確認し終えてから家を出て、学校へと向かう。これがいつもの流れだ。
 俺はいつもの黒のコートを着て、マフラーや手袋も一度手に取ったが……少し悩んで、結局今日は着けないことにした。天気予報で気温を確認した時、確か今日は昨日よりは冷えないみたいだったから。それなら、無くても耐えられる筈だ。多分。大丈夫! 
 ……でも、一応鞄の中にはその二つの防寒具を押し込んでおこう。
 ようやく、俺は玄関先で靴を履く。

「……行ってきます」

 もう妹も出掛けてしまって家には誰も居ないけれど、こう言ってから外へ出ると身が引き締まるようで、地味に習慣化している。ちゃんと帰ってくるよって、約束しているみたいな感じかもしれない。
 玄関から外へ出ると、眩しい陽の光が俺を出迎えた。今日も快晴だ。昨日あれだけ俺を苦しめるように吹き荒れていた冷たい風は、一晩明けて穏やかになっているようだった。朝の澄んだ空気はなんとも気持ち良く感じる。腕を大きく広げて、思わず深呼吸をしたくなるほどだ。
 冬は身体が冷えるのが多少辛いが、それでも明るい陽の光を浴びながら外を歩くのは嫌いではなかった。悩ましいことばかりで鬱々とした気分が、どんどん晴れていくようだ。
 しっかり玄関の鍵を閉めて、学校に向かおう。

「柚希くん!」
「うわぁっ!?」

 ドサッ!
 ……俺は、その場で盛大にずっこけた。受け身を取ろうと地面に置いた手が、ヒリヒリと痺れている……昨日から転びすぎだ。
 声の聞こえた俺のすぐ横へと視線を移すと、なんと真っ赤なワンピースの少女が、あんぐりと口を開け仰天した様子で俺のことを見つめていた。俺が転けたのは随分と予想外だったらしい。

「あ、あやさん……?」

 そこには確かに、昨日会った時と全く同じ姿をしたあやさんが居た。朝の陽射しに照らされた彼女の姿は、だいぶボヤけて見える。とても目立つ真っ赤なワンピースを着ていなければ、見つけるのに苦労しそうだ。

「そ、そうよ……! あのっ、ごめんなさい! 怪我はない?」
「大丈夫……尻餅ついたくらいだから……」
「本当にごめんなさいね……これから出掛けるんでしょう? 汚れちゃったかしら……」
「いやいや、平気だよ。こんなの簡単に落ちるから!」

 いつまでも尻餅をついているわけにはいかないので、俺はあやさんに笑いかけながら返事をしつつ立ち上がる。それから、着ている黒いコートについた土埃を軽く手で払い落とした。

「黒いから、よく分からないわね……でも汚くはなさそうよ」
「そう? 多分大丈夫だよ。あやさんとまた会えて良かったけど、俺はこれから学校に行かないといけないんだ。えっと申し訳ないんだけど、昼頃には終わるからまたその時に合流してもらって良いかな? それとも学校まで遊びに来てみる?」
「えっ? いえ、学校は緊張しちゃうから良いわよ……お昼頃ね? またうろうろしてるから、時間になったらここに戻るわ!」
「そっか、分かった……じゃあ行ってくるね。何かあったら、えっと……」
「何も起きないわよ、私は今のところ柚希くん以外には見えないんだから……ほら、行ってらっしゃい!」
「はは…………」

 ニコニコとしたあやさんの笑顔からは、昨日のような不安や悲しさがすっかり薄れているように感じ取れた。もうだいぶ元気になってきただろうか? あやさんは何を提案しても頑なに大丈夫だと言い張るが、俺の方はまだまだ心配が尽きない。
 はぁ……やっと再会出来たのに名残惜しくはあるが、遠くから笑顔で手を振るあやさんに見送られながら、やっと俺は家の鍵を閉めて住宅街を離れる。朝に誰かに見送られるのは久し振りだった。


 俺がいつも通っている学校は、歩いて十数分ほどに位置している。昨日行った病院とは反対方向だ。住宅街を抜けてから右側に曲がって暫く真っ直ぐ進み、信号を三つ渡ればもう着いてしまうような近い距離。
 住宅街から大通りに出ていくと、周囲が途端に朝の忙しなさで溢れていく。歩道横の広々とした二車線道路では、毎日どの時間でも車の通りが多く絶えない。勿論、道路を走る車だけでなく、通行する人々も沢山見掛けることになるだろう。
 それは俺が生まれた時から住んでいる、この[星雷地区]が非常に賑わっている証とも言える光景に思える。商業に娯楽、生活に必要な様々な施設も充実していて、これまで生活している身としても便利で過ごしやすい場所だと実感している。後はいきなり飛び出してきた怪物騒動さえ解決されれば、安心出来るのにな……。
 ただ少し惜しいことを上げるならば、隣の[花雲地区]の方がもっと広く全体的に栄えていることだろうか。あそこは大きく有名な商業施設だったり、なんだかよく分からないが高いビルなんかも多く建ち並んでいて、うちよりもずっと忙しない。まず退屈は絶対にしないだろう。
 それから更に隣の[夕雨地区]は少し落ち着いて、綺麗な山や湖がいくつもある自然豊かな場所のようだ。かの有名な灯神社はあの周辺にあって、日々色んな場所から参拝客が多く訪れているらしい。俺は記憶では一度も行ったことがないから、いつか行ってみたいと思っている。
 また隣の[涼嵐地区]はというと……簡単に言ってしまえば、他種族が多く住んでいる場所だそうだ。人間も住んでいるらしいが、俺にとってはあまり馴染みが無いので詳しいことはよく分からない……街並みはうちとそこまで変わらないと思う。少し謎ではある。
 段々と雑になってしまったが、それが大まかにこの日本都市【陽厦】を構成する四つの地区となっている。もし出掛ける機会があれば、その時はより詳しく知っていけると良いな。元々俺はここ数年調子ががあまり良くなくて遠出なんて出来そうになかったが、今の元気さがあれば少し離れている程度なら行けそうだし。


 話を現実に戻そう。今歩いている大通りを行き合う人々は、俺と同じように学生の人やスーツを着た会社員など……あと、たまに飼い主の人と楽しそうに散歩をするワンちゃんに出会したりなんてしたら、その日はラッキーだ。犬は本当に可愛い。癒される。
 そして歩道沿いでは、この時間に開店準備を進めているであろう店もちらほらと見掛ける。特にパン屋さんの前を通ると、パンの芳ばしく焼ける良い匂いが漂ってきて、数十分前に朝食を食べたばかりなのにもうお腹が空いてきてしまう。そういう時は学校帰りに寄って、ついつい沢山パンを買ってしまったり。流石に今日はもう、そんなにパンは見たくないが。大量のサンドイッチが既にあるし……いける、大丈夫。
 あぁ、少しのんびり歩きすぎたかな……時間はまだ大丈夫そうだけど、遅刻しないようにしないと……。

「ん……?」

 暫く歩いて、一つ目の信号に差し掛かった所だ。横断歩道の向こう側に、なんだか見覚えのある人物が立っている……気がする。その人物は俺の存在に気がつくと、少しぎょっとした仕草をして俺から瞬時に顔を逸らしてしまった。うん……だいぶ気まずそうだ。
 そんな相手の様子なんて関係なく……俺は単純に、とんでもなく嬉しくなっていた。早く向こうへ行って、駆け寄りたい……その気持ちをグッと堪えて、信号が青に切り替わるのを待った。不思議だ、たった数秒ほどの待ち時間なのに、なんだか長く感じる。
 相手はその間、ずっと顔を逸らしたまま微動だにしなかった。
 そうしてやっと信号が青になったところで、俺は急いでその人物の元へと駆け寄った。

 

「恋羅! おはよう……!」
「お、おはよ……」


 俺がすぐ近くに寄って挨拶をすると、相手は……恋羅はとうとう観念したかのように恐る恐る顔をこちらに向けてくれた。まだ少し寝癖がついている茶色の髪から、気怠げな赤い瞳が覗いている。

 良かった、こんな時間にここに居るなんて信じ難かったけど……やっぱり恋羅で合っていた。
 
「えへへ……どうしてここに? 恋羅の家からこっちまでだと、余計に沢山歩いただろ?」
「いや、ええと…………昨日、やっぱり柚希をだいぶ嫌な気分にさせちゃったなって申し訳なくなってたんだ……本当に、ごめんなさい」

 そう言いながら、目の前の恋羅は俺に向かって軽く頭を下げてくる。俺はまさか、そんなに丁寧に謝られるなんて思わず、驚いて目を見開いた。早朝に友人と会えたことを、呑気に喜んでいるなんて場合ではなかったようだ。

「れ、恋羅……! そんな、謝らなくても……別にそこまで気にしてないよ! それよりも恋羅とこんなに早く会えて、いま凄く嬉しいから! もう全てが最高に良くなってる!」
「……大袈裟すぎない? 嬉しいなら良かったけど……実は昨日早く別れちゃった分、今日は一緒に学校行けたらなって頑張って起きたんだ。でも、柚希には敵わないね」
「いや、恋羅はこっちまで長い距離歩いてきてるし……そこは仕方ないよ! じゃあ、一緒に行こうか?」
「うん……ありがとう……」

 ふぅ……ようやく、恋羅の顔にうっすらと笑みが浮かんだ。それを見て、俺は本当に安心した。恋羅が悲しそうにしていると、昔を思い出してしまうから。大切な友人を、もう泣かせたくない。
 この様子からして、恋羅は昨日別れてからもずっと、この事に申し訳なさを感じて悩んでいたのだろうか。やっぱり、別れる前にもう少し引き止めたりしてフォローするべきだった……無理にでもしっかり話し合うべきだった。俺は傷付ける可能性ばかり考えてしまって、結局弱気になり逃げてばかりだ。俺も、ちゃんと反省しないと。もう、こんなことが無いように……!

「…………」

 あっ……考え事をしていたせいで、せっかく恋羅と一緒に歩いているというのに無言になってしまっていた。心なしか、隣を歩く恋羅がチラチラと俺のことを気にしているような……。
 こ、これではいけない! 
 今日はせっかく恋羅と一緒に登校してるんだ。黙っているのは勿体ないだろう、何か楽しい話題があった方が絶対に良い! 頑張れ俺、何か良い話題を見つけ――。

「あっ……!」
「?」

 そうだ! 

 昨日のことを、恋羅に相談してみないといけなかったんだった。すっかり忘れるところだった……でも、これって楽しい話題か? 悩みごとを増やしてしまう可能性があるな……どうしよう。
 
「……柚希って、すぐ顔に出るよね。また何か思い出した?」
「っ……そう、そうなんだよ! ちょっと相談したいことがあったんだ。あんまり楽しい話題じゃないかもしれないんだけど、歩きながらで良いから聞いてくれないかな……?」
「何? 遠慮しなくていいよ」
「頼もしい……」
 
 それからは引き続き二人で学校へと向かいながら、当初予定していた通り……俺は昨日のあやさんとの件を、恋羅に恐る恐る話してみた。勿論、落書きと謎の生き物のことも忘れずに添えて。
 昨日恋羅と別れてから、俺の身に起こった出来事はどれも突飛すぎて、まず信じてもらえないかもしれないという不安はあったが、恋羅は相槌を打ちながら丁寧に聞いてくれていた。今後どうなるかは分からない。だけど、とりあえず話を聞いてもらえるだけでも、今の俺には有り難かった。

➡次回更新予定
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