
◆3.いつもと違う朝(3)
俺からの話が一通り終わった後……少しの間を挟んでから、恋羅がゆっくりと口を開く。
「うん……昨日僕と別れてから、そんなに色々なことがあったんだ……」
「そうなんだ、一気に沢山話しちゃってごめんな。分からないことがあったら、また説明がするから言ってくれよ。俺も昨日だいぶ混乱してたんだ」
改めて昨日のことを思い返してみると、たったの数時間だけで本当に多くの出来事が起きていた。しかもとんでもなく寒くて大変だったな……あのあと帰ってきてから、風邪を引かなかったのが幸いだ。今も至って元気だし。
「とりあえず、幽霊の女の子についてはよく分からないんだけど……もしかしたら柚希がその子と見たっていう落書きについては、少し心当たりがあるかも」
「ほ、本当か!?」
「うん。前に……街中にそんな落書きがされてるとかって話が、ネット上で出回ってるのをチラッと見た気がする。その落書きが、柚希の見たものと同じだったらいいんだけどね。また学校に着いてから、調べてみるよ」
「分かった! ネットとかよく分からないから助かるよ、ありがとう」
俺はスマホをそこまで上手く扱えない。
精々、朝のアラームに時間や天気、ニュースを確認するか……或いは緊急時のやりとり。それから、ごく稀に理途夢からおすすめされたゲームを軽く遊んでみるくらいだろうか。使うのはスマホにおける最低限の機能だけで、それこそネットなんてものはどう活用したらいいのかちんぷんかんぷんだった。
いや、分からないことがあった時に調べるには便利かもしれない。ただ恋羅のように特定の事柄に関する情報を、上手く瞬時に適切に集めていくなんてこなれた扱い方は絶対に出来そうにない。
後は……昔に母さんから、あまりネットに触れすぎるのはよくないと何故か釘を刺されたのも、スマホを敬遠してしまう理由になっているかもしれない。そんな一言で、少し恐ろしさを抱いてしまったのだ。ちょっと偏見すぎるかもしれないが。
これからも俺のスマホは、数多くの便利機能に一切触れられない日々になるだろう。ごめんな……。
それからはまた二人で他愛ない会話をしながら着々と道なりに進んだ、三つ目の信号を渡ってしまえばもう学校の校舎が目の前に見えてくる。俺たちの通う学校、あの大きな桜の木が目印になっている『桜日』という施設だ。
実は、ここ『桜日』は普通の学校とは違う。
在籍する生徒達は皆、“黒の怪物”による恐怖と苦痛を受けた経験のある被害者で、ここはそういう未成年の子達が様々な支援の元で、安心して教育を受けられるように設立された場所。
本来なら、必要無かった筈の場所だった。
怪物の存在が発端となっている“怪物騒動”において、一番問題視されているのは、俺達被害者のことのように思う。聞けば、都市の総人口の約五割が既に、怪物による被害者となってしまっているそうだ。甚大な被害が出ている。
被害者の抱える問題は重苦しく、一筋縄ではいかない。
この身体は、被害を受けた日からずっと毒に侵され続けている。
被害者が一番問題視されている所以は、怪物の持つ有害物質ーー黒泥と呼ばれる毒にある。実は怪物から攻撃を受けて怪我をしてしまうと、痛みと傷跡だけでは済まない。攻撃を受けた際にその傷口から、“黒泥”という毒が体内に入り込んでしまうのだ。だから、そのことが由来して被害者は分かりやすく『侵黒者(しんこくしゃ)』と呼ばれている。
俺と恋羅が丁度昨日に病院で行なった検査は、それに伴う身体状態の確認というわけで……勿論、検査後に貰った薬も俺達被害者にとって大切なものとなっている。
薬が無ければ、俺も恋羅も今みたいに普通の人と同じ生活なんて出来ない。一日中、黒泥による痛みと苦しさと憂鬱感で、ぐったりしていたことだろう。症状は人によって細かく異なってくるが、大体は全身の倦怠感にチクチクと針を刺されたような痛みが出現したりで、かなり憂鬱な気分になってくる……空虚だ。当然ながら、嫌なことしかない。毎日、最悪な気分で過ごすことになる。
昔にまだ、有効な薬が全然普及していなかった頃を経験した身としては、もうあの頃には戻りたくないと強く思う。
そんな黒泥に対して、今の医療では最適な治療薬の開発がなかなか追い付かず、現状完治は望めない。いま辛うじて支給されている薬も急拵えで、それは先程挙げた嫌な症状と毒の体内進行を現す《侵黒率》を少しでも抑え込むことしか出来なかった。こんなのは治療とは決して言えない……昨日、恋羅が嘆いていたように、ただの“時間稼ぎ”でしかない。
嘆きたくもなる、それは痛いほどに理解できる。だって、毒に侵された侵黒者達に待ち受ける最終的な結末はーー再び目覚められるのかも分からない、永い昏睡状態だから。
俺達はいずれ、生きていながら、何も出来なくなるんだ。
……表向きこそ普通に過ごしてはいるが、やっぱり将来のことに対しては不安が尽きない。あと自分にはどれだけ時間が残されているだろう、いつ動けなくなってしまうだろう、人によっては酷く怯える日々を送っているかもしれない。
ただーーそれでも……少なくとも俺は、未だに希望を捨てきれていない。まだ生きているから、それなら倒れて動けなくなってしまう時までは足掻きたい。少しでも、抵抗していきたい。
恋羅も、俺の考えに賛同して協力してくれている。
俺と恋羅は、全ての元凶である“怪物騒動”の真相解明と収束を望んでいる。その為にひたすら自分に出来ることから頑張って、あれこれ奔走する日々だ。自分は何もしないで他人任せにして、何も分からないまま終わってしまうなんてことは嫌なんだ。
最近は大した成果も得られず停滞気味だったのだが、そこに昨日のあやさんのことやら謎の生き物や落書きのことやらが追加されたおかけで……俺はこのことが、“怪物騒動”に何かしら関係していて、尚且つ解決への糸口となることを多少なりとも期待していたりする。だって明らかに怪物の見た目をしている変な生き物が、謎の落書きをして回ってるんだぞ。絶対に何かあるに決まってる!
また、これからはだいぶ大忙しになってきそうだな……つい色々考え込んでしまったが、改めて頑張るぞ!
「なんだか嬉しそうだね」
「え? そうか? いや、またこれから頑張ろうって思って……気合いを入れてた!」
「良いね、僕も頑張ろう」
一先ずは学校には着いたことだし、俺と恋羅はお互いそのまま下駄箱で黙々と靴を履き替えて、廊下を進み教室へと向かった。教室のスライド式扉は既に開け放たれていて、そこから他の生徒達が楽しそうに話す声が聞こえてくる。
扉をくぐって中へ入ると、既に二十数名ほどの同級生達が思い思いに談笑していたり、静かに席について授業の準備をしたりしていた。この教室には十五歳から十八歳、いわゆる高校生の年代の生徒達が約三十名ほど在籍している。『桜日』は、小・中・高の年代に分かれ各々二教室ずつの、計六教室での半日授業で構成されている。そして『桜日』のような施設はここだけではない、二つ隣の夕雨地区にも他の建物があって、どちらか近い方に通う感じだ。送迎バスもあるから、多少距離が遠くても問題ない。まさに至れり尽くせりだ。
明るく広々とした教室内での俺の席はというと、廊下側一番右端の前から三番目だ。その一個左側には、恋羅の席がある。
これは、後からこの学校に一人転入してきた俺が、少しでも安心出来るようにと配慮してもらった結果だった。今はもうこの場に慣れたが、確かに初めての場所はなかなか緊張して落ち着かないから……最初の頃は本当に助かったのを覚えている。恋羅も手厚くサポートしてくれていた。今では何故か、俺の方がサポートする側になっているが。
俺は自分の席に着いて、まずは提げていた荷物を机の脇のフックに上手く引っ掛けてから、自分の席に座った。恋羅も同じように荷物を置いて席に着くと、すぐさま横に居る俺の方を向いてくる。
先程の話の続きだろうか。
「ちょっと、さっきのこと調べるから待って」
「あっ、はい……」
「すぐ終わるから」
ずっこけそうになったところをグッと堪えて、俺は大人しく待つことにした。恋羅はというと……自分のスマホを手に取り、慣れた手付きで画面をススッと素早く動かしている。凄い、早いな。俺は暫く、その素早い動きに感心をしながら終始ボーッと眺めていたのだった。
そんな時間は、わずか一分ほどで終わった。
恋羅がスマホから手を離して、丁寧に俺へと向き直ってくる。
「……何か分かったか?」
「多少はね。謎の落書きのこと確認してみたけど、五年くらい前から確かにネット上の一部で話題にはなってる。白いインクで描かれたような落書きが、街の至る所に見つかったって……わりと最近の書き込みもあったから、今も増え続けてるみたいだね」
「そ、そんなに前から……やっぱりネットって凄いな。何だ、新発見じゃなかったのか……」
早速、期待が崩れてしまって俺は肩を落とした。しかもただ俺がこの事を知らなかっただけという愚かな結果だ。また、何もかも振り出しに戻るのか……。
「待って柚希、落ち込むのはまだ早いよ。落書きを描いた犯人は未だに捕まえられてない……特定出来てないんだ。でも、柚希は落書きを書いたのが、怪物に似た生き物だったのを実際に見たんでしょ? それって凄い新発見だし、何かしら『怪物騒動』にも関係してる可能性はあると思う」
「あっ、確かに……」
「後でまた、僕がもう少し詳しく調べてみるから……元気出して」
「わ、分かったよ。そんなに慰めてこなくていいから!」
そうだな……まだ完全に落胆すべきではない。落書きについては、とりあえず恋羅に任せて再び期待してみよう。俺も何か手伝えると良いけど、もっと情報を集めなければ何も考察しようがないからな。
「それで……次は記憶喪失の幽霊の女の子のことなんだけど」
「うん」
「僕は彼女のことが少し疑わしく思う」
「うん……?」
今、あやさんを疑わしいとか言ったか?
流石に聞き間違えか?
「はぁ……君はその顔からして理解してないみたいだから、ハッキリ言うけど。彼女の素性が全く分からない、それはまぁ記憶喪失だからって理由で片付けるのは別にいいよ。でも、何で彼女は落書きをして回る生き物の位置を察知出来るのか?」
「それは一応聞いたけど……あやさんも“何故か”分かるって、本人でもよく分からなそうにしてたんだぞ……?」
「柚希、言ったよね? その生き物、何度も怪物と対峙した君から見ても、明らかに“怪物”だったって判断出来たんでしょ? おかしいよ、中枢でも苦戦してた怪物の居場所を道具も無しにいとも容易く分かるなんて普通じゃない」
「えっと、つまり……」
「彼女は、怪物側と何らかの繋がりを持ってるとしか思えない」
「!」
そ、そういうことか……確かにそれは疑われても仕方ない要素なのかもしれない。俺も、昨日はそこまで深くは考えていなかった。
あやさんのことは、あの路地での良くない記憶の断片からして、怪物による被害者だと第一に予想していたが、もしかしたら逆側の可能性もあるのか……?
でも、それでも……。
「ごめんね。そういうことだから、僕は現状だとその幽霊の女の子は信用出来そうにない……柚希はもう少し警戒して、可哀想かもしれないけど慎重になって距離は取るべきだ。離れるのが一番いい」
「………………」
いや、俺は……そんなことしたくない。
あやさんだって、怪物の位置が分かるなんてことは“自分でも理解が及んでいない”ことだと言ったのに……失われた記憶と一緒で、一番疑念を抱いているのは彼女自身の筈だ。身に覚えのないことで、悪い判断を下されるのはあまりにも可哀想じゃないか。何より……初めて出会った時の、あの困り果てていた姿。悲しそうに眉を下げ、不安そうに縮こまっていた。
あれは、嘘なんかじゃないだろう。
彼女は夢か現実かも分からない知らない場所に一人置き去りにされて、孤独に潰されそうになっていたんだ。困っている人を見過ごすことなんて、俺には出来ない。それに、絶対に助けてあげると彼女に約束したんだ。そう俺が選択した道だ、それだけは恋羅相手でも譲れない。
俺の返答を待っているのか、恋羅の鋭い視線が俺に突き刺さった。それが更に、俺の口を重くさせた。これから俺が言うことは、きっと恋羅の機嫌を損ねてしまうだろう……でも、ちゃんと言わなくちゃ。
「恋羅……さっきの疑わしいって挙げてくれたことは確かに分かるよ、彼女と怪物との関係性は謎だけど一応は考慮しておく。だけど……俺には、彼女が悪いことを企んでいるようには一切思えないんだ。それはただの直感なんかじゃなくて、真摯に向き合ったからこそだよ。確かに警戒はすべきかもしれない、でもそれは……これから、もう一度判断してほしい」
「これから?」
「俺はこれから、落書きをして回ってるその生き物を捕まえたいと思ってる。あの存在は、怪物騒動の真相に迫る鍵に成り得るかもしれないから。それにはただ無闇に探し回るんじゃなくて、位置が分かるあやさんの協力があれば、かなり効率的に進むと思うんだ。“俺達の時間はもう限られてる”だろ……今の停滞気味な調査状況からしても、突き放してしまうのは圧倒的に損だ」
「……そう、なるほどね。まずは目先のことからってわけか。僕も理解してるよ。でも……やっぱり彼女には、軽率についていかない方がいい。生き物の捜索をしたいって言うなら、その時は僕も同行する。単独行動しないで」
「わ、分かった。じゃあ、学校終わったら、またあやさんと合流する約束してるから……その時にも、調査についてまた話そう」
「いきなりだね? まぁ、いいよ」
うぅ……これで良かったのかな。でも、言いたいことは言えた。
恋羅をあんまり困らせたくないが、あやさんのことを悪く言われるのも許せなかったんだ。恋羅は俺のことを心配してくれてるだけって、分かってるのに……。
「よっ! 二人とも、おはよ!」
「!」
この声は……すぐさま振り返ってみると、そこには満面の笑みの理途夢が立っていた。今日も元気いっぱいそうだ。
「おはよう、理途夢」
「二人とも、大丈夫か? また怪物騒動の件?」
「それとはまた別件かな……恋羅と少し相談してたんだ」
実は理途夢にも、俺達のやっている怪物騒動に関する調査のことを話したりしている。最初は危ないんじゃないかと心配ばかりされたものだが、今はむしろ応援されている。やっぱり理途夢も、騒動のことに関してはだいぶ気掛かりなようだった。
「へぇ~、相変わらず頑張ってるんだな。中枢よりも早く成果を出せちゃったりしてな~」
「…………」
理途夢のそんな言葉を聞いて、恋羅がいきなりムッとした。どうも気に触ることがあったらしい。
「ちょっと理途夢。煽てるのは別にいいけど、そもそもこんな風に被害者が自ら頑張らないといけないほど現状が一向に良くならないのっておかしいよね? 僕達の優秀さよりも、中枢の無能さに目を向けるべきだよ」
「ごめんって! そんなつもりはなかったんだよ~」
あぁ、また言い争ってる……理途夢と恋羅は、性格的にちょっと相性が悪いんだ。こんな時は落ち着かせないといけない。主に恋羅を。
俺は慌てて、二人の間に割って入るようにした。案の定、恋羅が即座に睨んできて恐ろしいが、負けない。
「恋羅、理途夢に怒っても仕方ないだろ。それに、あんまり悪く言うのもよくないよ。中枢が俺達の為にやってくれてることが、いくつもあるじゃないか。えっと、街中の警備手配だろ……それに探知機の開発もやってくれた。医療費だって……」
流石に昨日、俺が道路に飛び出しかけたところを中枢の職員さんに助けられたことまでは言えないが、あれだってそうだ。ちゃんと、俺達のことは気に掛けてくれている。
「恋羅? これは無能なんかじゃないだろ?」
「……はいはい。柚希がそんなに擁護するなら、あんまり酷いようには言わない。でも、『怪物騒動』の解決が遅れすぎなのは事実だから」
「もう、高圧的なのは止めろって……」
「お~! なんか柚希と恋羅のやりとり、面白いな~。さすが幼馴染み! じゃあ、みんな頑張ってるってことで解決だ! そろそろホームルーム始まるから準備する~」
「はは…………そうだな……」
「理途夢は能天気すぎだよ」
とりあえず、話し合いは落ち着いたようだ。
俺はとても安堵した。
数分後には担任の先生が来て、短いホームルームが行われた。
これから昼まで、計四回の授業が始まっていく。目の前では他の先生が入れ替わりで来て、早速本日一限目の数学の授業が行われ始める。俺は数式が書かれていく黒板を見ながら、説明に耳を傾けた。
……いつも通りに集中していたかったが、今日ばかりはどうしようもなく上の空だった。