
◆5.特別な力(2)
「……………………」
外は、とても静かだった。明るい陽射しが射し込む、いつも通りの朝の住宅街。一歩、また一歩踏み出して、俺は周りをくまなく見渡してみたが……。
やっぱり赤いワンピースの彼女は……あやさんは、居なかった。
「お兄ちゃん?」
「! あっ、みな……」
「ほら見て、あれ夢津さんの車じゃない?」
あっ……本当だ。タイミングが良い。
水無月が指差す先ではエンジン音と共に、一台の黒いワゴン車が近付いてきていた。そして車はゆっくりと、もう数ヵ月は空いていたうちの家の駐車場に停められる。
出てきた運転手は、夢津さんで合っていた。夢津さんはいつもの白衣姿とは違って、外出用と思われるお洒落なチェック柄の入ったグレーのロングコートを羽織っていた。下は恐らく、いつも通りワイシャツとスラックスだ。
夢津さんはすぐに玄関先に立つ俺と水無月に気付いて、にこやかに笑った。陽射しの目映さも相まって、とても爽やかに見えた。
「待たせちゃったか? 二人とも、おはよう」
「夢津さん、おはようございます。いえ、丁度外に出てただけなので大丈夫ですよ! 今日はこんな早い時間にありがとうございます」
「良いよ。ほら、戸締まりしっかりして準備が出来たなら、遠慮なく乗ってくれ」
これから俺と水無月は、昨日提案してもらったことを有り難く受け取り、夢津さんの車に乗せてもらって駅へと向かう。時間としては車ならそこまで掛からない、十分程だ。
準備が完了して戸締まりもキッチリ済ませた俺と水無月は、二人並んで車の後部座席の方に座った。車内はヒーターが効いていてとても温かい。それに、隅々まで綺麗に整頓されている……夢津さんの誠実で几帳面な性格を如実に現しているようだった。
車の後部座席の窓から外を眺めていると、休日なのもあってこの時間でも既に人通りが多く見えた。五年前のあの日以来、度々怪物が出るようになってから外出するのも憚れて、街中が閑散としていることも多かったが……ここ数年、怪物への対策や警備体制がだいぶ整えられてきたおかげか、普通に外でもこれまで通り過ごせるようになってきた。依然として神出鬼没な怪物によるリスクは排除出来ていないが……少しでも早く、また安心して過ごせる日々に戻れると良いな。
そんな隙あらば怪物や心配ごとばかりが頭の中を埋め尽くしている俺だが、これから行く“灯神社”への出発点である最寄り駅に着く頃には、すっかり期待と楽しみな気持ちがいっぱいで胸が高鳴っていた。わくわくする。あれが駅か……とても大きくて高い建物だ。電車に乗るのは実に何年ぶりだったかな、前は両親も居たし、本当に小さな頃だったような気がする。
「夢津さん、ありがとうございました。助かりました」
「ああ、帰る時も駅に着く時間あたりに連絡してくれよ。また家まで送ってやるから。遠慮するなよ!」
「はい」
「じゃあ気をつけて、楽しんでくるといい」
駅の中は外から見た通り、広々としている。それにただ電車に乗りに行くだけの場所ではないようで、いくつかお店も並んでいるのも気になった。思わず好奇心が湧いてくるが、今日はもう行く場所が決まっているんだ……時間を大切にする為にも寄り道はしない。我慢だ。
「ふふっ、ここも色々あるね。まだ神社にも着いてないのに、もう本当に楽しい!」
「そうだな、あんまり来ないから新鮮な気分だ……」
俺の横を歩く水無月は、まるでステップを踏むかのようにうきうきとした軽やかな足取りで、周りのお店や掲示物まで楽しそうに見渡している。そんな水無月を眺めていると、俺は嬉しさを感じて頬が緩みっぱなしだった。家族が楽しいと、自分も楽しくなるな。
少し歩いてから、俺は券売機へと向かい二人分の切符を買った。もちろん目の前に貼られている運賃表をよく見て、間違いが無いように気を付けながら。慣れていないからか、この時ばかりは少し緊張した。
……これで、合ってるよな?
「お兄ちゃん、切符ちゃんと買えた? よし行こう! ほら、電車に乗り遅れちゃうよ!」
「分かった! 急ぐから! あと自分の切符は持ってくれよ!」
そうして水無月に急かされるまま駅の改札口へと向かうも、その先はより一層多くの人で溢れ返っていた。俺はたまらず圧倒されて、思わず足を止めてしまった。す、進めないんじゃないか……?
「わぁ……! これ、電車乗れるのかな」
確かに……せめて、水無月だけは座らせてあげられるように席を確保してあげたいところだ。俺は兄として、覚悟を決めるしかない。
隣の[花曇地区]だと、いつも早朝には車内がぎゅうぎゅうになるほど込み合って大変だと聞くが、この様子だとうちもそこまで変わらなさそうだな。それとも、単純に休日だからだろうか。
……なんだろう、この雰囲気。少し険悪な空気を感じる。周囲をまた軽く見てみたが、やけに周りに居る人達の元気がないように思えた。それどころか、ちょっと……不安そうな顔をしている人が多い。構内でぼそぼそと反響する人々の会話も、聞こえる範囲だと「困った」だとか「いつ動くんだろう」とか……俺は瞬時に、“何か大変なことが起きている”ことを察知した。
「みな、もしかしたらトラブルか何かが起きてるのかもしれない。そろそろ電車が来る時間だけど、ちょっと待ってよう」
「え、トラブル? えっと……あ! お兄ちゃん、あれかな?」
あぁ、うっかりしていた。水無月に指し示されてからようやく、俺は改札口の上の天井から吊り下げられている電工掲示板を確認した。そこには重要そうなマークと共に運転見合わせとの文字が映し出されていた。流れていく文字を追っていくと、理由は……線路上に怪物が立ち入りだって?
俺が文字を読み終えた頃には、同様のお知らせをするアナウンスが駅構内へと響き渡った。よく見たら、駅員さんも各々対応に追われて忙しなく駆け回っているようだった。
アナウンスによると、今はあの“特隊”が急いで対応しに向かっているらしい。怪我なく無事に済むことを祈るばかりだ。
また怪物か……これはきっと水無月がカンカンになるに違いない。案の定、水無月の方を見てみると完全に膨れっ面になっていた。さっきまであんなに、楽しそうにしていたのに……。
「お兄ちゃん……怪物が電車止めてるってことだよね? これじゃ神社に行けないよ……!」
「……仕方ない。特隊の人が代わりに頑張ってくれてるんだし、俺達はここで待つしかないよ」
「むぅ……何で、こんなに邪魔してくるんだろう。せっかく早く起きて来たのに、時間が足りなくなっちゃう……」
確かにそうだな……なるべく早く解決すると良いが、やっぱり怪物だと対応に時間が掛かる。討伐と、その後に清掃作業、それから最終的に安全確認……うん、全て円滑に進んだとしても三十分以上は掛かると見込んでおくべきだろう。
俺は、ひたすら不安に駆られていた。夢津さんにも送ってもらって、せっかく今日のため二人揃って準備してきたのに。予定していたことが、どんどんずれていってしまう。
いったい、どうしたら……。
「! お兄ちゃん、見て」
「ん? 何だ……もう倒せたのか?」
「怪物が……色んなところに出始めてる……!」
「えっ!?」
いつの間にか自分のスマホを取り出していた水無月が、ズイッと俺に画面を見せてくる。そこには速報のニュース記事が大きな見出しで並んでいて、内容はどこで怪物が出現したとのことばかりになっていた。とんでもない事態だと、驚愕した。
俺も慌てて自分のスマホを取り出し、今度はニュース記事ではなく専用アプリから確認してみた。中枢が開発した、怪物の出現位置や動向がリアルタイムで分かる便利なものだ。水無月の言った通り、現在居る[星雷地区]だけでも既にマップ上の三ヶ所に、怪物の位置を示す赤いマークが点滅していた。
「…………!」
そのうちの一つは、この駅からそこまで遠くない場所での出現だった。今まさに、街中で怪物が暴れているというのか?
怪物が出たら、人々は屋内へと避難することになっている。怪物は何故か建物の中へまでは入ってこないからだ。幸いにも俺達の居る場所は駅構内で、怪物が侵入して襲ってくる可能性は極めて低い。ここは、今の段階では安全と言える。
しかし……俺はつい先程、夢津さんの運転する車の中から眺めた街中の光景を思い出していた。本当に、多くの人で賑わっていた。あそこにもし、急に怪物が出てきたとしたら……大きな被害は避けられない。不安が渦巻いていく、また被害が増えて……!
「おーい、火華! 大丈夫か?」
「!」
この声は……。
「夢津さん! どうしたんですか? 危ないですよ!」
「あぁ、スマホがビービー鳴ってやがるな。こんなんじゃ落ち着いて電話も出来ないだろ……いや、本当は後から電車が運転見合わせて止まってるってのを見て、二人が大丈夫か心配になったから来たんだが……怪物も出てきてるし…………」
急いで走って来てくれたのだろう、夢津さんは膝に手をついて少し息を切らしていた。俺達のために……そんなに……本当に、夢津さんは俺達兄妹のことも、昔からまるで実の弟や妹のように接してくれて優しく温かい人だと感じた。
それに見知った人が傍に増えて、俺は心底安堵した。最悪の想像をして焦る気持ちが、多少は落ち着いた気がする。水無月は、相変わらず怪物に対してプンプンと怒っているが。
「そうだったんですね……夢津さん、本当にありがとうございます。来てくれて、とっても頼もしいです。あの、何か飲みますか?」
「あぁ、別にいいよ。これでも体力はある方だから、見た目ほど疲れてはいないさ。まったく、さっき別れたばかりなのに、またすぐ再会することになるとはな……それより、今の状況は相当不味い」
「……はい。怪物が同時に複数体出るなんて、五年前に初めて出たとき以降は無かったのに……」
「異常事態ってことだな。とりあえず、落ち着くまではここで待機していよう。俺はまだ駅の近くに車停めてるから」
…………どうしようか。
無意識に、俺は手に持ったスマホのメール画面を開いていた。これはもうすっかり、怪物が近場で出てきた時の癖になっている。
いつも居る場所とは違うけど、もしかしたら……。
「そう言えば、お兄ちゃんのところには何か連絡来てる?」
「あっ……みな。俺のところには、まだ……」
!
メールが……届いた!
丁度、それは俺と水無月で一緒にスマホ画面を見つめ始めた時で、きっと俺達兄妹は同じタイミングでビックリした顔をしていたことだろう。
送り主は、依兎間(いとま)の特殊戦闘部隊。通称“特隊”。先程、線路上に立ち往生していた怪物への対応も行っていた組織だ。今も、各所に出現し始めた怪物をどうにかすべく多くの隊員が動き回っている筈だ。
そこからの、“支援要請”だ。
「………………」
暫く電車は動きそうにないし、俺がこれからやるべきことはもう決まっていた。諦めては、いけない。自分にはまだ、やれることがある。
「……みな、さっき買った切符を持っててもらって良いかな?」
「分かった。やっぱり、手伝いに行ってくるの?」
手渡した切符を受け取りながら、水無月の赤い瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。俺は、とても悔しい気持ちでいっぱいになっていた。
せっかく早起きして準備も万全にして、水無月も本当に楽しみな気持ちでここまで来たのに……こんなところでも邪魔をしてくる、怪物が酷く許せない。俺は、負けたくない。
「うん」
「そっか…………」
「………………」
「……お兄ちゃんがそう決めたなら、私は止めないよ。全力で応援してるから……! それから、怪我しないでちゃんと戻ってくるんだよ! 一緒に灯神社で可愛いお守り買うんだからね! あと絶対にスイーツも沢山食べるよ!」
「! うん、絶対に行こう! 約束だから!」
俺の返答を聞いた水無月は、今日一番の輝かんばかりの笑顔を見せてくれた。俺にとってはまだ十四歳の小さな妹だ、それなのに兄がこんな無茶ばかりして、苦労や受け入れ難いことも多いはず。
それでも……水無月は、昔からいつも俺がやることを応援してくれた。優しく背中を押してくれて、本当に有り難かった。
たくさん苦労を掛けている、分かっている。それに対して申し訳ないと思っていないわけではない……これはただ水無月の優しさに甘えているだけだということも、重々承知している。
だけど、それ以上に、俺はまだ頑張って動けるのに何もせず立ち止まることが嫌だった。弱々しく不甲斐ない自分が、どうしようもなく悔しいんだ。大切な家族が応援してくれるからこそ、俺は全力で頑張りたい。
「すみません、夢津さん……! みなと一緒に居てもらっていいですか?」
「ああ、勿論だ。というか規定では、お前も怪物を拘束するまでは避難してないといけないんじゃなかったか? 大丈夫か?」
夢津さんの言葉に、俺はぎくりとした。
確かにいつもならそうだ。ただ、今は非常事態でもある。こんなに沢山の怪物相手にいつものままでは、被害は到底抑えきれない。ニュースは恐くてもう見れそうにないが、怪我人は確実に出てしまっているだろう。
「も、もしかしたら引き止められてしまうかもしれませんが……今もどんどん怪物が増え続けていて、いつ全ての拘束が終わるかも分かりません。この通り支援要請は届いてますし、被害を最小にする為にも俺はなるべく早く倒せるように現場近くまで行こうと思います……! 正当な理由です!」
「はぁ、つくづく情けない。こんな子どもまで、危険に身を投げないといけないなんてな。分かった、気を付けろよ」
「はは……もう、そんなに子どもじゃないですよ」
そうと決まれば……俺は早速、肩から提げている鞄から赤い腕章を取り出し、左腕に通して着けた。一応持ってきてはいたけど、まさか今日これを着けることになるなんて思わなかった。
この腕章は、特隊と並ぶ協力者の証。着けていれば立場を証明出来るし、まず外で咎められることはない。
怪物の身体構造は、とってつけたかのように実にシンプルだ。動き回る為の躰《黒泥》と、その中にはたった一つの《真っ赤な心臓》。怪物は人間と同じように、心臓を刺すなりしてしまえば倒れる。逆にこれが無事なら、怪物は無限に動き続けるわけだ。
ただ、動き回る怪物の心臓の位置を探るのは、なかなかに難しかった。個体ごとに、心臓の位置や大きさまでも違う。このことで、戦うことを得意とする人員でも、怪物を倒すには時間が掛かってしまった。被害を抑えるには、迅速な討伐が必要となる。
怪物の討伐にあたり一番悩ましいのが、心臓の位置が分からないことだった。何度も攻撃を続けて、時間を掛けて心臓の位置を探っていく……ようやく分かった頃には、最後の一撃を繰り出すのもやっとで皆ぼろぼろに疲弊しきっているのが普通の光景だった。
依兎間の戦闘員達は、多くの犠牲を払ってでも戦い続けた。当然抗うにはそうすることしか方法が無かったから。
とても痛ましく、辛いことだった。
しかし、今は違う。戦況に、変化が起きたのだ。
それは運悪く、また怪物を間近で目にすることになった侵黒者からの証言から判明した。実は……俺みたいな未成年の侵黒者の一部は、ただの被害者というだけには留まらないことが分かったのだ。
俺はこの身体を黒泥に蝕まれて以降、“不思議な力”が使えるようになった。使い方次第では、多いに役立つ。
その一つは、怪物のその黒い躰に押し込まれている赤い弱点――心臓の位置が何故だか視えることだった。あの真っ黒な躰の内に隠れる、唯一鮮やかな色の心臓が、俺にはハッキリと分かる。
《俺達に与えられた役目は、特隊に協力して忌々しい怪物へとトドメを刺すことだ。》
「行ってきます!」
ところで、この都市【陽厦】に住む人間の極一部には、特別な力に目覚めるものが居る。“神性能力者”、彼らはそう呼ばれている。
彼らは胎児のうちに神様――つまりは灯様から選ばれて、特別な力と身体を授かる。体内を循環する血液は、生まれ出た時には特殊なものに変わっている。それが、特別な力の根源。
過去に、とある研究者が考えた。この血液を普通の人間へと入れ込めば、同様に特別な力が目覚めるのではないかと。あろうことか、研究者は自らの身体で実験をしたのだ。付き添った助手の記録によると、それは失敗に終わった。
結論から言うと――神性能力者の特別な血液は、普通の人間とは完全に相容れなかった。血液を入れ込んだ研究者は直後に全身の苦痛を訴えながら発狂、散々暴れ回り、そのわずか数分後には息絶えたそうだ。
特別な血液は、普通の人間には“有害な毒”でしかなかった。特別な血液には、またそれに耐え得る特別な身体が必要不可欠だったのだ。
この話から、大方は察しが付くだろう。
この研究者による実験と「怪物騒動」で起こっていること、そして特別な力を持つ神性能力者と特別な力に目覚める侵黒者という両者の酷く類似した特徴。
侵黒者とは、まさに“黒の怪物を媒介として生み出される人工的な神性能力者”だと言える。この騒動は謂わば、不本意で勝手な人体実験のようなものだった。俺達は、多くの人々は、こんなことを望んでなんかいない。
同時に、これが今回の騒動に“灯様”が確実に関わるべき事案だとの声が多く上がっている理由である。誰の策略だかは未だに分かっていないが……この「怪物騒動」とは完全に、これまで都市の人々に尽力してきてくれた神様の力を悪用した冒涜行為に他ならなかった。