
◆6.黒の怪物(1)
人の波を縫いながら、俺は騒々しくなっている駅構内を出口目指して駆けていく。走っていると段々と暑くなってきたので、身に付けていたマフラーや手袋は途中で外して鞄に突っ込んだ。この方が、スッキリして動きやすい。
これまで駅に来る機会が全然無かったせいで、構内の正確なマップが俺の頭には叩き込まれていなかった。おかげで、度々道を間違えてしまって引き返す……なんて間抜けな動きを挟みながら、どうにか俺の目の前には駅を抜ける下り階段が見えてきた。良かった。
俺は転ばないようにして急いで階段を駆け下りて、ようやく外へと出た。
「はぁ……体力温存しないといけないのに、だいぶ走ったな……」
俺は息を整えるように、その場で何度か深呼吸した。道中の苦労もあってか、久々に外の冷たい空気を吸えて、なんとも清々しい気分になった。上空の天気は少し、薄暗く曇ってきているけど。
さて、状況を整理しよう。
現状、黒の怪物の討伐は都市の保安組織[依兎間]から、更に戦闘能力に特化した精鋭で構成された特殊警備部隊――通称“特隊”が任を受け中心となって行ってくれている。普段の見回りもそうだ。
そして先程……俺はスマホのメールを通して、その特隊から支援要請を受けたことになる。届いたメールには専用サイトへと繋がるリンクが貼られており、まずは記載された注意事項や受諾後の流れの説明を読まなければならない。これに関しては、元々俺は“依兎間との怪物討伐に係る協力者”として正式に登録する際に、事前に両親と共に細かく説明は受けて内容は把握しているし、全て承諾しているから、一応軽く目を通すくらいでいい。
それら全てをざっと確認した後に、最下部に置かれた受諾ボタンが有効になるので、特に問題が無ければ押して完了。
いかにも、現代的なシステムとなっている。
受諾後はまず俺の現在地が、近くに居る依兎間の特隊へと端末を通して伝わる。勿論、俺からも特隊の現在地と動きが分かるようになる。これからどうするかというと、俺は特隊に協力する為に怪物の出ている現場へと後々向かわなければならない。
このこともあって基本的に怪物討伐の救援要請は、現場近くに居合わせた“協力者登録している人”に対して送られる。それと今の俺のように必死に走らなくても、その時になれば普通に依兎間の車両で安全に送迎してもらえる。
これは「怪物騒動」に際して、防御体制を取ることしか出来ない現状を打破すべく臨時で生まれた制度だ。これが制定されるまでには多くの時間と月日を要した。侵黒者であることに加えて、いくら特別の力に目覚めたと言えど、よりによって子どもを危険な怪物の暴れ回る現場へと向かわせるなんてことは、人々から多くの反対を受けたからだ。中枢もなかなか決断に踏み切れなかったそうだ。
その流れを明確に変えたのは、依兎間だった。
当時の依兎間は、連日に渡る怪物との戦闘で心身共に疲弊しきっていた。怪物の複雑な心臓位置をなかなか見つけ出せないが為に討伐は毎度難航し、多くの隊員達が怪我をして、侵黒者となってしまった者も出ていたのだ。その地獄のような絶望的状況を、大きく変えられる“希望”が見つかったのならば、縋がりたくもなるだろう。
彼らは今の体制のままでは、「怪物騒動」による危機的現状は一向に変わらないと強く主張した。
そして、人々は子どもが危険に晒されるのを一番に危惧していることを踏まえて、彼らは子ども達の身の安全を確実に確保出来るように、具体的な作戦時の行動指針を計画し明示した……そこからまた多くの話し合いと世間への説明の末に、ようやく正式決定したのがこの緊急制度だ。
それが、今に繋がっている。
この制度を活用した怪物討伐の基本的な流れは、まず探知機による警報を受けて警察と特隊が現場に向かい対応。警察は周囲の避難誘導と交通整理、特隊は怪我人の救護と怪物への応戦が主な役割だ。特隊の第一目標は、周辺に被害が及ばないように怪物の身動きを止めて拘束すること。心臓を壊さなければ怪物は何をしても倒れないため、無理に攻撃を仕掛けることはない。
そして無事に特隊による怪物の拘束が済んでから、特別な力を持つ未成年の侵黒者の出番だ。彼らは肉眼でしか怪物の心臓位置を視られない、わざわざ現場に出向かなければならないのはそういう理由だった。そうして彼らが心臓の位置を突き止めて、トドメを刺し倒していく感じだった。
つまりこの制度で最も重要な安全確保の前提として、“怪物を拘束してからでなければ、現場に子どもを連れてきてはならない”決まりになっていた。それから現場への道中も、隊員を複数人つけて万が一が無いよう厳重に護衛することになっている。もし子どもに何かあれば、依兎間は“相応の制裁を受ける”とも明確に示してある。
依兎間の苦労の末に決まったせっかくの制度を破綻させたくはないし……ここから先は絶対に迷惑を掛けない為にも、自分の身の安全に十分気を付けて動こう。
「よしっ……急がないと!」
覚悟を決めて、俺は一番近くの現場へと走り始めた。
近場の怪物は、その出現からもう十五分は経っただろうか。未だ動き回っているのを見るに、当然ながらまだ拘束は完了していない。依然として危険性は排除されていないのだ。
遠くから、唸るような救急車のサイレンが鳴り響いてくる。ぐるぐると回る思考に、再び嫌な想像が過った。一体、既にどれだけの怪物による人的被害が出てしまっているのだろうか……。
どんどん怪物が出現している現場へと近付いていくうちに、街中の人通りも減ってきた。周辺の道路では変わらず車通りがあるものの、その動きには多少の慌ただしさが見られる。
緊張感が増していく……人々が避難して閑散とした街中を、一人走って悪目立ちしている恥ずかしさなんて感じている暇は無かった。俺はひたすらに、全速力で走り続けた。まさか、休日にこんなに体力使うことになるなんて……ちゃんと、無事に合流出来ると良いけど……!
……………………。
もう少し………………。
「!」
っと、見えた……あそこだ!
全力で走り始めて五分後くらいで、俺からはまだ少し離れた前方にようやくいくつかの人影が窺えた。
一般人ではない。動きやすそうな軽い素材でできた黒のフードジャケットとズボン……そこへアシンメトリーに橙色と灰色の特徴的なカラーリングの入ったスタイリッシュなデザインの制服。良かった、あれは依兎間の特隊の人達で間違いない。
ここ周辺は、明らかに物々しい雰囲気になっていた。
「あっち行った!」
「うわっ、間に合わない……!」
この距離から少し聞き耳を立ててみると、指示と受け答えをする声がする。その様子から察するに、やっぱり怪物はまだ拘束出来ていないらしい。予断を許さない危険な状況だ。
そうだな……流石にこれ以上近付いたら迷惑になるだろうから、ここら辺で待機しておこう。俺の位置は向こうも把握している筈。
丁度横には本屋があるし、ここで一旦――。
「君! 避けて!」
「え?」
俺が本屋に視線を移した直後、また指示をする大きな声が、今度はわりと近くから聞こえてきた。しかもそれは、俺に向けられたもののようだった。声がした方向へと振り返る、その頃には既に一つの重大な危機が俺自身へと迫ってきていた。
そこには俺の腰あたりまでの高さはあるだろう、真っ黒で奇怪な姿をした怪物がこちらに向かって勢いよく駆けてきていたのだ。姿は四足歩行の動物に似ているが、その頭部らしき部分に耳などはなく丸々としている。後ろにはとかげのような尻尾もついていた。
……あまりの不気味さにぞわぞわと鳥肌が立ち、体温が低下していく。いや、急いで避けないと!
俺は咄嗟に歩道のタイルを蹴り上げて、怪物の進行方向から逃れようとした。
「ぅぐっ!」
大丈夫、襲われたわけじゃない。
俺は慌てて動いたせいで、横の建物の壁へと無様に激突してしまった。そして間一髪、次の瞬間には俺のすぐ横を風を切りながら怪物が素通りしていく。幸運と言うべきか……怪物は俺に対して一切目もくれず、どんどんまた遠くへと走り去っていってしまった。
危なかった……未だ激しく動いている怪物をこんなに間近にしたのは、数々の現場に出てこれが初めてかもしれない。ぶわっと汗が吹き出してくるような緊張感に襲われて、俺は硬直した身体のまま怪物の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。この一瞬だけで、手足が震えている。情けない、力がなかなか入らない……。
それから怪物を追うようにして何人もの特隊の人達が、続けて俺の横をとてつもない速さで駆け抜けていった。総じて急いでいるようだったが……優しいことに、へたり込んでいる俺を見やって心配の声や安否確認するような声掛けをしてくれる人が殆どだった。それも一瞬の出来事だったせいで、ろくに返事は出来なかったが。
各々の手には拳銃やナイフ、それから盾や網まで持っている人も見えて、あの怪物に対するこれまでの苦労が垣間見えた気がした。
こ、これ……俺も追いかけないと不味いか……?
「……火華くんだよね? 怪我はない?」
「あ…………」
無様にも置き去りにされてしまった思ったが……幸いにも一番後方に控えていた依兎間の隊員の一人が、俺の元に駆け寄ってきてくれた。先程、俺に避けるように注意を促してくれた人だ。
しかも運が良いことに、その人は知り合いだった。
「ふ、藤谷さん……はい、お疲れ様です……助かりました」
「いやいや~、本当に焦ったんだよ! さっき救援要請受けてくれた子が、真っ先に待機命令無視して現場まで来ようとしてるんだから~! 皆バタバタしててごめんねぇ」
「あっ、こちらこそ……急に来ちゃってすみません……! これからより一層、気をつけて頑張ります! 怪我しないように!」
「うんうん、ありがとうねぇ! 期待してるよ~!」
優しく笑い掛けてくれたこの人は、藤谷桃さん。
緑色の瞳と、橙色のセミロングボブヘアーには黄色のメッシュが少し入っていて夏の向日葵を彷彿とさせる。藤谷さんの気さくで朗らかな人柄にピッタリだ。
藤谷さんは俺の住むエリア周辺を担当している隊に所属していて、怪物との交戦時にはよくお世話になっている。怪物を目前にした緊急時でも、こうしていつも落ち着きを払って対応する様が、未だ焦りやすい俺を安心させてくれて助かっている。
あれっ、というかここはいつもの担当エリアじゃないはず……。
「藤谷さん、普段ここら辺の担当じゃありませんよね……? 俺も出掛ける関係で、いつもとは違う場所に居ましたけど」
「あぁ、私達は謂わば穴埋めだねぇ。本来ここの担当してる隊は、先に怪物が出現し始めた近場に移動して対応しに行っちゃったんだよ。ほら、今まで怪物が“同時に何体も出”るなんてこと、最初に怪物が出現した時以来なかったでしょ~?」
確かにそうだ……なるほど、非常事態につき臨時の対応をとっているということか。こう何体も怪物が出ていては、自ずと戦力も分散してしまうな……討伐にはいつもより時間が掛かってしまいそうだ。
そして被害の規模も……うぅ、もう嫌な想像するのは止めたい。
「まぁ、人員に関しては大丈夫だよ~。依兎間は私達特隊だけじゃなくて、一般の隊員も駆り出してる。それに中枢も戦える職員を何人か派遣してくれてるみたいだから。あぁ、話してる場合じゃないねぇ……さっきの怪物仕留めるよ」
「あれは……」
「この付近には、さっき走り去っていった怪物一体と、厄介なことに飛行するやつが一体増えて計二体出現してるんだ。さっきのは怪物にしては珍しく力が強くてねぇ……網絡めてみても無理やり蹴破るし、盾を構えても私達が突き飛ばされる始末で。もう何人も地面に打ち付けられてる……まぁ多少の怪我は大したことないよ。だから拘束は諦めて、総攻撃してみてどうにか倒すしかなさそうなんだよねぇ」
「俺、手伝いますよ! その為に来ましたから!」
「ありがとう~!」
そうと決まれば、きっちり俺の役目を果たさないとな。
さっきはただ走り去っていく怪物を無心で見つめていたわけではない。逃すまいと見極めていたのだ、その弱点である“心臓の位置”を。
「あの怪物の心臓ですが、さっき見た時に“右前足の丁度真ん中”にあるのを確認しました。そこを狙えば、確実に壊せる大きさをしています。それと……怪物の動きを抑えられた方が心臓狙いやすいですよね……?」
「出来ればね……でも、私達の力でもあれには及ばないし……」
そうだ……心臓の位置が分かったとしても、あんなに暴れられたら狙うのに苦戦してしまうだろう。まずはあの怪物の動きが少しでも止まるように対処しないと。あの怪物は力が強い……止めようとするならば、あれに対抗出来るような強い力が必要になる。
だったら、俺は“最適”になれるかもしれない。安直だが、やっぱり力には力をぶつけるのが一番手っ取り早い!
「あの……藤谷さんが持ってる、その盾を借りて良いですか?」
「これ? 分かった、火華くんには何か策があるんだね?」
俺は頷く。
今まさに目の前で怪物が暴れているとなれば、悠長にしている暇はない。俺は提げた鞄から急いで、革製の丈夫な黒の手袋を取り出して手に嵌めた。これは“力を込めすぎて”自分の手を怪我しないように、念の為の予防だ。
そして、俺は自身の左耳に着けた赤いピアスを数秒摘まむようにして触れた。普段は周囲の光を反射してただ輝くピアスが、今度は自発的に光を放ち始める
「まさか、力を使って……?」
「はい、俺なら止められるかもしれませんからね。盾を構えるのに両手が塞がると思うので、代わりに倒して貰って良いですか?」
「問題ない……そりゃ力には力を当てるべきだけど、そんなに体張らせられないよ……」
「いけます、大丈夫です! 援護お願いします!」
俺は藤谷さんから手渡して貰った盾を受け取る。その見た目に反して、持ってみると意外にも軽くて扱いやすそうだ。全身を守ることが出来そうな大きさで、高さもあり頑丈そうだ。
これで、準備万端だな。